冷や汗の流れたラボ第11回・・・中国“曲芸”の世界

 恒例「平居家花見」という大イベント(?)は今週末である。寒かった2月の末くらいに、過去数年の開催日を参考にしながら決めてアナウンスを始めた。ところが、3月半ば以来、むやみに温かいものだから、我が家の桜も4月4日に開花、今日で五分咲きくらいになってしまった。午後から日が差してきた日曜日。青い海、散りかげんの梅、やはり五分咲きの水仙とともに、桜を見ながら静かに過ごすことができたのはよかったけれど、やっぱり残って欲しいなぁ桜、次の土曜日まで・・・。

 さて、昨日は「ラボ・トーク・セッション」第11回であった(→前回の記事)。今回のゲストは石巻専修大学准教授・輪田直子氏。演題は「中国“曲芸”の世界−人は三国志をどう語り、どう演じたのか?−」。
 初めて輪田先生のお名前を知った時、私はピンと来るものがあった。「わだ」は普通「和田」と書く。「輪田」はそうそう目にする機会のない表記だ。「平井」と「平居」の関係によく似ている。実は、私が大学2年の時、輪田先生という方の「哲学講読(ドイツ語)」という授業に出ていたことがある。既に西洋哲学ではなく、中国哲学を専攻することが決まっていた私にとって、わずか10人あまりの、西洋哲学・倫理学専攻予定者に囲まれて受けるこの授業は手強かった。カール・レーヴィット(1897〜1973年。ユダヤ系ドイツ人。ナチスの勢力拡大に伴ってドイツを追われ、1936〜1941年東北帝国大学で教鞭を執っていたことがある)のテキストは面白かったのだが、ものすごい勢いで授業が進んでいく(先生が強引に進めたのではなく、出席していた学生の側の問題)。それが私には本当につらかった。あの輪田先生の娘さんだな、と思ったのである。果たしてそのとおりであった。
 お話はものすごい早口で1時間20分に及んだ。朗読と翻訳が求められる「哲学講読」と違って、聞いていればいいだけという気楽さがあったにもかかわらず、あのすさまじく速くてつらい輪田(父)先生の授業の記憶が蘇ってきて、冷や汗が流れるような気がした(笑)。
 それはともかく、お話そのものは面白かった。「曲芸」というから、私は、京劇における宙返りを含む派手な立ち回りの場面を思い浮かべ、そのような演出で三国志が語られてきた歴史をたどるのかと思ったら、最初に、「曲」は「楽曲」の「曲」、「芸」は「文芸」の「芸」、したがって音楽を交えた語り物である説唱文学を意味すると解説された。帰宅後に辞書を引いてみれば、確かに「曲芸:歌いもの芸能、民間俗曲芸能の総称」(古い『中日大辞典』愛知大学刊)と書かれている。それを知らなかったのは、中国学で学位を受けた者として実にお恥ずかしいことで、これまた冷や汗が流れた。
 先生は、正史『三国志』の性質を解説した上で、それをベースとして、どのようにアレンジが重ねられたかをたどった。『三国志演義』であり、元代の雑劇であり、『三国志平話』であり、『三国志鼓詞』であり、『三国志玉璽伝』である。そして、『反三国志』など、現在でも三国志のアレンジは行われ続けていることに触れて結んだ(先生は「パロディー」という言葉を使っておられた)。それら一つ一つがどのように語られ、どのような音楽が付けられていたのか、それを実際に聴かせていただけなかったのは残念だったが、数々の奇想天外なアレンジの手法を知っただけでも新鮮な驚きがあった。実際に三国が抗争していた時代から現在まで1800年近いことを考えると、なおのこと驚異である。
 出発点となった正史『三国志』の話は、「歴史」というものの性質について教えてくれた。「西晋陳寿が書いた『三国志』は、分量の半分以上を魏の歴史を述べた「魏書」が占める。これは、西晋にとって魏が正当な王朝だったからである。なぜ魏を正統な王朝と位置付けたかと言うと、西晋が魏の政権を簒奪したのではなく、禅譲を受けたのだという形にする必要があったからだ。魏を正当な王朝と位置付けた結果として、魏の王には尊称「帝」を付けるが、蜀の王は「主」(劉備玄徳は「先主」と呼ばれる)、呉の王は無礼にも呼び捨てにされる。なぜ、呉よりも蜀の方が尊重された書き方になっているかというと、陳寿の出身地が蜀であったことと関係するのではないか?・・・」。確かに、歴史というのは客観的な事実として存在するのではなく、それを書く後世の人間が作るものなのだ。そしてそこには、単なる政治的意図のみならず、郷土愛のような執筆者の個人的な感情まで入り込んでくる。歴史は人間そのものである。
 奇しくも、昨日私は、任光「彩雲追月」のアレンジについて多少の考察をした。そして、「アレンジがたくさん行われるのは、名曲の証である。飽きが来ない上、普遍的な何か、いろいろな形態で演じてみたくなる何らかの魅力を持っているということだからである」と書いた。三国志も同様である。先生は、お話の最後で、なぜ三国志がこのように長く人気を保ち、多くのバリエーションが作られたかという理由として、抗争関係にある国の数が「3」という変化を生み出しうる数であったということ、最後には全て滅びてしまうということ、という2点を指摘された。
 お話の後は例によって参会者による交流会。主催者が準備したいいワインがたくさんあった上、某医師が名酒「日高見」の大吟醸酒を差し入れして下さり、これがあまりにも美味だったものだから、ついつい飲み過ぎ。21時半過ぎに閉会はしたものの、その後も居座ってしまい、ふと気が付けば日付けが変わっていた。
 実は、カンケイマルラボでの開会は今回が最後。次回は(バージョンアップを目指して?)場所を変えてリニューアル。お楽しみに。