左藤さんの文章

 左藤さんのコップを買った時、「沖縄/ガラス/私」と題した小さな小さな冊子をもらった。約8cm四方で20ページの手作り冊子である。左藤さんはなかなかよい文章を書く方で、『はじまりのコップ』にも左藤さん自身の文章がたくさん引用されているのだが、この小冊子もとてもよかった。一番印象に残ったのは次の一節だ。かつて沖縄の奥原硝子製造所で修行をした左藤さんが、後に、その社長であった桃原正男氏の丸いコップを雑誌で見た時の印象について書いた部分だ。

「見事な出来で、何とも良い形で、私が今作れるようなものではなかった。ああ良いものを見たと思い、見なければよかったとも思った。」

 人間の真情というものがこれほど正直に見事に表現された文章というのは、なかなかお目にかかる機会がないような気がした。
 また、工房を開いて1〜2年後、神戸のある店に営業に行った時の話。その社長にサンプルのコップを見せると、「うちは作家さんの個性あるガラスを扱う店なので・・・」と、まったく相手にされなかった。社長は、左藤さんのコップに個性を見出すことが出来なかったのだ。その時のことについて、左藤さんはこう書く。

「その時から私は、俺は金輪際、作るものに自分の個性なんか出さない、と心に決めた。(中略)結果的にこの出来事は、自分の好きなものに寄り添い、我を離れて作るという意識を強めてくれることになった。」

 個性というのは、自分が出そうとするか出すまいとするかに関係なく、どうしてもにじみ出てきてしまうものだ。全く同じ文字を、2人がお互いに似せようとしながら書いても、その筆跡が一致することは絶対にない。そういうものである。左藤さんが「出さない」としゃかりきになればなるほど、どうしてもにじみ出てきてしまう個性というものの強さが見えてくるはずだ。「我を離れ」ようが離れるまいが、「自分の好きなものに寄り添」えば、その「好き」と感じる気持ちそのもの、どのようなものを「好き」と感じるかが個性である。左藤さんはそのことに気付いているのかいないのか・・・?
 神戸での出来事は、左藤さんにとってとても腹立たしいことだったらしいが、「結果的に〜くれることになった」と言うように、彼に良いものをもたらした。だが、その「良いもの」とは、決して個性のない作品ではなく、逆説的に、極めて個性的な作品である。
 個別性(特殊性)というものをとことん追求すると普遍性へとたどり着く(→加藤周一、→伊福部昭)。これは自然の理法だ、と私は認識している。何も特別な格好をしておらず、特別な飾りも付いていない左藤さんのコップや文鎮に私が感じる優れた性質とは、おそらくそういうものである。