「愛が私に語ること」



 ちょっとしたきっかけで、この10日間ほどハイドンを一時停止して、グスタフ・マーラーの第3交響曲にはまっていた。世の中に好きな音楽は山ほどあるが、マーラーは感性において最も波長の合う作曲家のような気がする。一昨年も、一度その第9交響曲を取り上げたことがある(2009年11月2日)。第3は第8と並んで、その次に好きな作品だ。とは言え、演奏時間100分を超える超重量級なので、「ながら聴き」をするのさえ容易でない上に、「ながら聴き」を許さない密度を持っていて手に負えない。いきおい、特に大好きな第6楽章を繰り返し聴くことになる。それでも、演奏時間は25分ほどかかる。

 この楽章には、「Langsam(ゆっくり), Ruhevoll(静かに), Empfunden(感情を込めて)」という指示がある。雰囲気は全く違うが、ラベルの『ボレロ』のように、同じ旋律が手を変え品を変え、ゆっくり静かに延々と繰り返される。それでいて全く飽きることがないのだから驚異だ。

 今日は総体の代休で家にいた。家人はいない。この10日間の総まとめとして、バーンスタインウィーンフィルを振ったDVDで、全曲通して真面目に聴いた(見た)。音楽を創造するというのは、作曲者においても演奏者においても、途方もない作業だと思うと同時に、この曲の持つ吹き上げるようにエネルギッシュな感情の洪水に、ただただ圧倒される思いを抱いた。

 ところで、この曲は、当初標題音楽として構想され、各楽章にタイトルが付けられていた(最後にははずされる)。35分近くかかる第1楽章に、「牧神が目覚める。夏がやって来る」と付けられていたので、『夏の交響曲』と呼ばれることもある。ちなみに第6楽章は、「愛が私に語ること」である。第6楽章を聴いている時にのど元にこみ上げてくるような感情が、「愛」だと言われれば、確かにその通りだと思うが、言われなければ他にもいろいろ形容の仕方はあるような気もする。音楽の標題というものを、どのように考えるべきだろうか?

 高村光太郎は、かつて「詩について語らず─編集子への手紙─」(昭和25年2月26日)という随筆の中で、以下のようなことを述べている(指示語の内容を補い、現仮名に直して引用)。

「実は言語の持つ意味が邪魔になって、内部に充ちてくる或る不可言の鬱積物の真の真なるところが本当は出しにくいのです。バッハのコンチェルトなどをきいてひどくその無意味性をうらやましく思うのです。」

 「悲しい」と言葉で言えば、「あぁ、悲しいのね」と分かったような気になってしまう。その実、一人一人、一瞬一瞬「悲しみ」の相などは変化するのであって、「悲しい」などと言ったところで、その「悲しみ」を本当に分かったことになどなるわけがない。「悲しい」など、感情の説明としては大雑把極まりない言葉なのである。にもかかわらず、「あぁ、悲しいのね」などと分かった気になれば、それはもはや思考停止とも言うべき状態だろう。だから、詩人は自分の感情を説明するのに「悲しい」などという言葉は使わない。得体の知れない、日本語の組み合わせとしては一見破格であるような言葉の配列を考え出し、結果としてそれを読む人の心の中に、詩人が感じたと同じ波風が立てば、それこそが理想なのである。言葉には意味がある。だから、それを用いれば、何かを説明できるような誤解が生じる。言葉をいくら重ねても、感情など決して説明は出来ないのに・・・。それが、高村の言いたかったことだ。

 音楽は抽象性が非常に高い。だからこそ、言葉のように、分かったような誤解を与える可能性は低いだろう。もちろん、実証することは不可能だが、理想的には、私達が音楽を聴いて心を波立たせる時、その感情は、作曲者が作曲の際に抱いていた感情なのである。

 マーラーが、出版の際に標題を取り外したのは賢明であった。「愛」には、正に「愛」と呼ぶにふさわしいものから、それが「愛」であると意識しないものまで無限の諸相がある。にもかかわらず、そんな標題があれば、凡庸な人間は「あっ、愛を表現しているわけね」と言って、その曲を聴いた時の自分の心を枠にはめ、自由に感じることを許さなくなってしまうだろうからである。

 音楽、特に器楽などというものは、その抽象性にこそ価値がある。聴く者は、それを聴いた時の自分の心を素直に受け入れればよいのであって、それを言葉で説明しようなどという小賢しいことは考えるべきでない。少なくとも私のような一般人において、言葉は、世の中の豊かさに比べれば、著しく貧しい表現力しか持たないのである。マーラーの音楽は、そんな一言で片が付くような貧しいものではない。