「サマーセミナー」と「弁論大会」



 愛知県で毎年7月半ば過ぎに行われる「サマーセミナー」の存在を私が知ったのは、1990年だったと思う。普段の授業とは違う、純粋に学ぶことの面白さを追求した特別授業を、学校のカリキュラムを離れて実施するという試みは面白いと思ったが、実際に見てみないとイメージできない「高校生フェスティバル」と違って、どんなことをしているのか想像が付くので、わざわざ見に行くこともなく20年が過ぎた。

 そうしたところ、昨日書いたような経緯で、突然その実際を見るチャンスに恵まれることになった。7月頭にT君から送られてきたチラシを見てびっくり仰天!「チラシ」とは言っても、紙一枚では済まないので、新聞形式のなんと32ページもある大部なものである(当日配布のパンフレットは168ページ!!)。講座数約1350。それを、1コマ80分で1日4コマ、3つの学校の施設をフルに使って3日間で行う。座学だけではなく、現地集合のフィールドワークもたくさんある。講師は超有名人から一般市民、更には高校生(300も!)まで種々雑多。普通だったらそれ一つだけで大イベントになりそうな超有名人の講座だけでも、両手の指の数では済まず、しかも受講料はタダというのだから驚く外ない。今年の校長(名誉職)は川口淳一郎氏(JAXA教授=はやぶさプロジェクトのリーダー)である(この人の講座は、残念ながら自分の出番と重なっていて聞きに行けなかった)。

 せっかくなので、私は、自分の出番の前日に当たるサマーセミナー初日に名古屋入りし、16日第3限の岩崎夏海(『もしドラ』の作者)、第4限の亀井静香国民新党代表)の講座に出た。どちらもとても面白かった。17日は第1〜2限の時間帯に行われた「第14回寺内杯 大きな学力・波風体験・中高生弁論大会」を見に行った。

 実は、私は「弁論大会」が好きではない。NHKの「青春メッセージ」など、虫酸が走るので見るのを止めて久しい。というのも、そこに欺瞞性を感じるからだ。

 人が真剣に生きれば、社会の矛盾と直面せざるを得ず、社会の矛盾と直面すれば、政治のあり方に思いを致さざるを得ない。純粋に自分の体験とそれに基づく考察などほとんどなく、あるとすれば大抵は掘り下げが浅いか、あえてそうしているだけだろうと思う。しかし、実際には、少なくとも私の目に触れるような上部大会で発表される弁論に政治性を帯びたものなどない。まして、「○○党の政治ではダメなのだ!」といったアジ演説もどきは存在しない。つまり、「弁論」には、たとえ主催者から内容に関する条件として明示されていなかったとしても、なぜかある種の枠があって、イデオロギー的に無色透明になるように自制されているように見える。どうにもそこが胡散臭い。いかにも思い入れたっぷりな、「弁論大会調」と言うべき語り方も好きになれない。

 場所は愛知である。愛知の高校生は特別な存在(アクティブで社会的)だ。だとすれば、私の大嫌いな「弁論大会」とはひと味違う「何か」があるのではないか?私はそのような期待を胸に、会場に足を運んだのである。

 13人の弁士が7分の制限時間で発表を行った。13人中、障害者が3人、家庭事情が特殊な人が2人いるというあたりは、いかにも普通の「弁論大会」パターンだ(もちろんこれ自体は決して悪いことではない。「波風体験」なのだから当然と言うべきか)。一方、高校生フェスティバルの活動を通して、教育費の捻出に苦しむ仲間を救うため、教育費の公私格差是正(私学助成)運動等に取り組む話が4人、東日本大震災のボランティアに参加した話が2人から語られ、彼らの社会との関わりが実感できた。しかも、それが決して教師からの受け売りや押しつけではなく、彼らなりに体験し、悩んだことを元に、自分自身の問題意識として骨肉化していることがよく分かったのは好感が持てた。

 私の嫌いな「弁論大会」という無言の枠が、愛知では全く存在しなかった、などと言う気はない。人によっては、彼らの私学助成運動に対する取り組みを、設定された方向性として胡散臭く思ったりもするだろう。しかし、私は彼らの話を聞いていて感動したとまでは言わないまでも、決して退屈はしなかったし、不愉快も感じなかった。いや、面白かった。

 音楽にしても、その他の芸能にしても、メディアで鑑賞するのと、ライブで鑑賞するのでは全然違う。落語なんて、人が話しているだけなのだから、ラジオでもOK、テレビであれば何の問題もない、などというのは大間違い。ライブが断然いい。もしかすると、弁論大会も同じことなのかも知れない。