C型肝炎の記録(1)・・・アルコール性肝障害から始まる



 昨日、酒について書いた。今日の夜は、卒業生が訪ねて来た。3週間ほど前に、私の都合についてメールで問い合わせがあった時、「じゃあ、26日に飲みにでも行くか?」と返信したところ、「僕は酒を飲まないので・・・」と返って来て、なんだか出鼻をくじかれたような気がした。と書けば、いかにも私が「酒豪」であるかのようだが、決してそうではない。ただ好きなだけで、強くない。それどころか、私が酒を飲むようになったのは、この2年ほどのことなのである。

 と言うのも、学生時代は人並みに酒も飲んでいたのだが、30歳の頃に「C型肝炎」という病気を持っていることが発覚し、以後、禁酒となってしまっていたからである。15年あまりの闘病生活を経て、治癒したとの診断をもらったのが一昨年の秋、その時から私の酒に関する第二の人生が始まった。

 一度整理しておこうと思っていたことなので、私の病歴(闘病歴)について書こうと思う。長くなると思うが、C型肝炎を巡るこの20年の変化というのは、科学技術(特に薬学)や公衆衛生、健康保険財政等に大きく関わるなかなか社会的に面白いテーマである。

 初めて、私の肝臓に異常が発見されたのは、1990年4月のことであった。4月19日の午前中、勤務先に、日赤血液センターの何とか課長という方から電話がかかってきた。彼は、事情を話すのを後回しにして、私にいくつかの質問をした。「朝は起きられますか?」「特別に疲れやすいということはありませんか?」等であった。私が「ない」という答えを繰り返していると、彼は初めて事情を明らかにした。数日前に私が献血した時の血液を検査したところ、肝臓の状況を示すGPTという酵素の数値があまりにも高い、通常は40以下くらいであるところ、私はなんと400もあると言う。近くの医療機関に相談してもよいが、検査の間違いということもあり得るので、血液センターに来てくれれば無料で再検査する、とのことだった。

 私はひどく動揺した。電話を切った直後に、電話の近くにいた同僚が、一体何事かと私に尋ねてきたので、よほど雰囲気が異様だったのだろうと思う。私は、急遽、休みをもらって、すぐに北仙台にある血液センターに向かった。再検査の結果は、数日後に郵便で届いた。GPTは316だった。

 5月15日に、その紙を持って掛かり付けの医者(外科出身の総合医)に行った。改めて血液検査をした上で、「アルコール性肝障害」との診断が下り、プロヘパールという薬を処方された。GPTは着実に降下を続け、8月末には基準値以下になった。私は、ただの酒の飲み過ぎだった、薬はよく効いたと信じて疑わなかった。だから、その後、親の強い勧めで、生命保険に入るために保険会社の指定する医者の診察を受けて、今のような事情を話したところ、「肝臓に問題有り」という診断が出され、保険の加入を断られた時、その裁定を非常にいぶかしく思った。

 しかし、後から思えば、肝臓の専門医であれば、この時点で、私の異常が「アルコール性肝障害」などではないこと、ウィルスが検出されない以上は、当時「非A非B型」と呼ばれていたやっかいな病気であることに気づいていたのかもしれない。というのも、4月の日赤の検査では、GPTしか測定されなかったが、5月の掛かり付け医ではGPTと共にGOTという酵素が測定され、GPT/GOTが164/64という値になっている。このGOTよりもGPTの値が高いというのが、実はC型肝炎の特徴だからである。基準値を上回っているかどうかというだけでは判断できないのだ。

 約3ヶ月で値が基準値以下になったというのは、おそらく薬の効果ではなかったと思う。私の300とか400という値は、いわゆる「急性増悪」という現象であり、治療などしてもしなくても、山を過ぎればまた自然に落ち着く性質のものだったのだ。