C型肝炎の記録(4)・・・668の衝撃とウィルスの性質



 1998年3月20日、私は単独日帰りで、岩手県焼石連峰の駒ヶ岳(1130m)を登りに行った。天候にも恵まれ、無事頂上に立ったが、車の所まで下山すると妙に体が重い。疲労感としてかつて経験のない種類のものであった。帰宅すると、Y医師から電話がかかってきた。一昨日採血した血液の検査結果が非常に悪いという話で、GPTが「668」であると告げられ、私は言葉を失った。肝臓というのは、よく「沈黙の臓器」と呼ばれ、自覚症状が出にくいとされるが、基準値上限の15倍を超える異常値が出ても、車を片道3時間運転し、スキーを履いて雪山に登れるものなのだ。私は「668」にも驚いたが、そのことにも驚いた。

 「病気」と言えば、「栄養をたくさん取って安静」というのが常識であるように思う。実際、私がC型肝炎に罹っていた15年あまりの間に世話になった何人かの医者の中には、「安静」を勧める人もいた。しかし、自分なりに調べてみると、C型肝炎については、何をしても進む時は進む、進まない時は進まない、だから生活上の制限は必要ない、ただし酒は絶対によくない、というのが正しいように思われた。「生活の制限は必要ない」と言えば、聞こえはいい。しかし、これは、逆に言えば、進行を止めるために努力してもムダだ、というのと同じことである。私は、断酒の上、急性増悪の時だけ多少の運動制限をし、それ以上のことはしないことにした。Y医師も、「668」では山登りに行かせるわけにはいかない、と言っていた。

 私は急性増悪の間隔が短くなり、更に「192」が下がりきる前に「668」になったことによって、自分の肝炎が「活動性」になったと考えた。そして、おそらくはIFNの適用になるだろう、だとすれば、今度は肝臓専門医の手にかかった方がいいと思い、4月1日に東北労災病院に行った。

 私が、東北労災病院のS医師を知ったのは、仙台にC型肝炎の患者の会のようなものがあって、一度だけそこに顔を出した時である。この会の正式名称は忘れた。個人が勝手にやっていた会である。私が自分の症状について説明すると、他の10人くらいの出席者は、GPTがいつも60〜100という高い値で安定している人達で、「急性増悪」という発現の仕方を知らなかったらしく、あまりにも大げさに驚かれたので、面倒になって、その後は足を運ばなくなった。いろいろな本を読んでも、確かにC型肝炎は様々な症状を示すそうであるが、私のように、GPTが長く基準値内に収まっているかと思えば、突然300とか400とかになるというパターンは少ないようだ。彼らが驚いたのも無理はない。ともかく、肝臓の専門医を1人も知らなかった私は、この場で耳にしたS医師の名前だけは記憶に残った。

 初診だったので、採血の後、結果が出るのを待たずに(GPT等生化学検査の結果は院内ですぐに出るが、ウィルスに関する検査には時間がかかる)すぐ診察となった。S医師は私のお腹に触れると、「あんまり肝臓に触れないなぁ(=腫れがひどくないということだろう)」と独り言のように言い、とりあえず急性増悪を少しでも早く沈静化させるために、掛かり付けの医院で「強力ミノファーゲンC(強ミノC)」という薬を、毎日40cc注射してもらうようにということと、10日後にまた来るようにと言った。

 私は、強ミノCを注射するために、Y医師の所に通い始めたが、毎日Y医師の所に通い、更に月に1回のペースで仙台のS医師の所に通うのは、なかなかの重労働だった。時間を確保するのが大変だというだけではない。このS医師という方は肝臓専門医としての名声著しく高い人らしく、この先生が外来担当の日は、彼の診察を受ける患者が大量に押し寄せる。5:20に家を出て、6:40に病院に着くと、全てがS医師の患者というわけではないが、大抵50人ほどが並んでいる。7:00に自動受付が始まり、8:00に採血開始、その結果が病院内で分析され、返ってくるのを待って10時頃から診察。順番待ちのため、終わるのは昼前後になる。しかも、待合室には人があふれ、座る場所さえないことがある。大きな病院で有名な先生の診断を受けるというのは、健康体でなければ出来ないことだとつくづく思った。

 4月10日に再び行くと、血液検査の結果を知らされた。わずか1ヶ月でGPTは248まで下がっていた。S医師は「インターフェロンをやりましょう」と言った。私が「生検をやって活動性だという診断が出なければ、IFNは使えないのではないですか?」と尋ねると、「活動性か非活動性かを診断して書くのは私です。そんなことどうにでもなるんです」と答えた。私は、肝臓の専門医というのはこういうものなのかと驚き、「では、私が以前生検を受けた時にも、先生だったら活動性と書いたのですか?」と尋ねると、「はい、書いたでしょう」と答えた。私は、始めから肝臓の専門医にかからなかったことを後悔した。1993年春にここに来ていれば、私は肝臓のコンディションが悪化する前にIFN治療を受けられたのである。

 この間私は、自分なりにIFNという薬について、本を読んだり、Y医師から医学雑誌をもらって読んだりしながら勉強していた。そして、INFの効きについては、遺伝子型、血中量というウィルス側の問題と、α、βと2種類あるIFNのどちらをどれくらい使うかという使用法上の問題とがあることを知った。

 C型肝炎ウィルスと一言で言っても、実は、大きく分けて血清型(セロタイプ)で2種類、遺伝子型(ジェノタイプ)で4種類に分かれる。遺伝子型の1a型、1b型は血清型の1型となり、2a型、2b型は血清型で2型に分類される。血清型と遺伝子型は、性質も判定の方法も異なるので、正確には「血清の1型が、二つの遺伝子型に分かれる」という言い方は正しくないかもしれないが、それで困るということもない。血清型は1型より2型の方がIFNが効きやすい。遺伝子型の1a型に日本人で感染している人はほとんどおらず、感染者の4分の3以上は1b型である。つまり、日本人の場合、IFNの効きにくいタイプのウィルスに感染している人が圧倒的に多い。遺伝子2a型と2b型では、20%ほどの人が感染している2a型の方が効きやすく、10%未満と言われる2b型は、それに比べると効きが悪い。当時の標準的な、IFNα600万〜1000万単位を連日2週間+隔日22週間投与という方法で、完全著効(ウィルスが消えて完全に治癒する)の確率は、大雑把に1b型が15%、2a型は65%、2b型は45%と言われていたが、同じ遺伝子型でも、ウィルス量の多い人と少ない人がいて、ウィルス量の多い人は、治癒率が低い。これは進行に従って量が増えるというのではなく、ウィルスの性質によるものらしかった。だから、私としては、自分のウィルスが、ウィルス量の少ない2a型であることを願うのは当然である。IFNの使い方の問題は、また後で触れる。

 4月10日の診察で、ウィルス量が告げられた。ウィルス量の測定方法は複数あって、素人には非常に分かりにくい。単位が分かりにくい上、それぞれの検査方法には特徴があるらしく、ある検査方法で低く出たから、他の検査方法でも低いというものではないらしい。例えば、私のウィルス量はアンプリコア定性という方法で、この時240K。その後は毎月だいたい300K前後の数値を示していた。ところが、7月13日にDNA分岐プローブという方法で測定したところ0.8meqであった。ウィルス量が「少ない」と言えるのは100Kまたは1.0meq未満だから、アンプリコアでは「少ない」と言えないが、DNAでは「少ない」ということになる。実際、普通の人はアンプリコアで100Kなら、DNAでは1.0位になるそうで、私の場合なぜズレが出るのかというと、私のウィルスの性質によるのだそうである。不思議なことに、このような場合、必ずアンプリコアで高値、DNAで低値となり、その逆はないらしい(このように検査方法によってウィルス量が変化する人は、IFNがよく効く場合が多いという医学論文もあった。私にとっては明るい材料である)。8月10日にCRT−PCRという非常に感度の高い方法で測定したところ、「10の4.5乗」という値になった。もう訳が分からない。

 ともかく、S医師によれば、私のウィルス量は決して「少ない」とは言えず、「中の下」くらいだそうである。少し落ち込む。

 ところが、6月24日の診察の際に、血清型が2型であることが告げられた。つまり、遺伝子型で言うと2a型か2b型で、日本人には比較的少数であるが、IFNの効きやすいタイプである。自分にはまだ「運」がある、と思った。私は、遺伝子型は分からないのかと尋ねた。すると、血清型の検査は保険適用だが、遺伝子型の検査は保険適用ではない、自費で行えば数千円かかると言われた。数千円なら調べて欲しいと言ったが、なんとなくうやむやになってしまった。後から思うに、医師にしてみれば、血清型が1型であるか2型であるかは、治療方針を立てる上で重要だが、遺伝子型の違いによってINFの使い方が変わるわけではないので、わざわざ数千円を払ってやるほどでもない、ということだったのだろうと思う。しかし、自分の研究費から費用を捻出したのか、S医師は密かに私のウィルスの遺伝子型を検査していた。それが私に告げられたのは、7月末の入院後である。遺伝子型は2b型であった。つまり、日本人の中では最もまれな種類のウィルスを私は持っているのだ。2b型で中ウィルス量というのは、明るい材料も暗い材料も含まれる、なんとも微妙な位置だ。

 しかし、S医師は折に触れて「ウィルス量が少なくない」というマイナスの材料ばかりを口にした。H医師のような冷酷さではない。私は、そこにS医師の、患者に期待を持たせすぎてはいけない、という配慮を強く感じた。