C型肝炎の記録(7)・・・ウィルスの再出現と717の当惑



 IFNの副作用がだんだん軽くなるというのは、同じ場所を針でちくちく刺激すると、だんだん感覚が麻痺して痛みを感じなくなるというのと同じ仕組みらしいが、それは感じにくくなるというだけであって、なくなるわけではない。しかも、IFNを注射すると、2日間で血中濃度が大きく高まっては下がるので、山に当たる時にはなんとなく全身がしびれたようになって重い。運動など、「してもよい」と言われても出来るものではない。職場ではクラス担任を受け持っていて、クラスで生徒と関わり合うのは気が紛れてよかったが、じっと机に向っていると副作用が自覚されて辛いので、生徒と関わり合っている以外の時間は、進路指導室の資料の整理等、軽い肉体労働を行って気を紛らわせていた。

 また、IFN投与を始めて間もなく、白血球や血小板は大きく減少したが、これは予定されていたことで、IFNを止めればすぐに回復すると言われていたので問題にはならなかった。10月に入ると脱毛がひどくなってきた。手で髪の毛を引っ張ると、気持ちがよいほど抜けた。抜けただけではなく、頭髪がやせ細ってきた。しかし、私は元々髪の毛が太くて多かったので、禿げるというほどにはならなかったし、むしろさらさらヘアーで快適なほどだった。今だったら長髪にも出来る、と思った。うつや食欲不振といった最も深刻な副作用は表れなかった。ともかく、私は1日おきにK医師の所に通った。

 10月5日の労災病院での検査では、GPTが遂に16まで下がり、11月2日にはGPT/GOTが13/16となって、数年ぶりでGPTとGOTの値が逆転した。S医師は、「今、時間を巻き戻しているんですよ」とよく言った。IFNによって正常な肝臓の状態を作り出すことで、それ以前に蓄積されたダメージを回復させる余力が肝臓に生じ、何年か前の状態に戻って行く。S医師の言葉はそういう意味である。

 IFNの保険適用は24週間である。体調が優れず、2日に1度の注射のために生活が縛られる本当に長い長い時間だ。私は、待ちに待った最後の1本を1999年1月24日に打ち、翌日、労災病院で検査を受けた。ところが、この時のGPT/GOTは30/19という慢性肝炎のものになっていた。もちろん、前日に最後の1本を打ったとは言っても、体内のIFNは消えていないわけだから、この結果は不可解である。

 IFNは4〜5日で体内から消えていく。この時期の爽快感というのは、信じられないほどである。体が軽く、頭はクリアーで、自分は何でも出来るという気にさえなってくる。逆に言えば、投与開始直後の副作用が強かったために、第1波が「慣れ」によって解消し、更に連日投与が隔日投与になることで、副作用がかなり軽減したので、さほど深刻に感じていたわけではないが、IFN投与中の体への日常的な負担がいかに大きかったか、ということである。

 さて、GPT/GOTが決して正常とは言えない状態を示した1月25日の採血だったが、その時のウィルス検査の結果は2月24日に告げられ、相変わらず陰性を維持していた。しかし、この時期、IFN終了直後の爽快感が消えると、私は何となく体調に異変を感じていた。そして、3月24日の定例検査の際に、2月24日の採血から再びウィルスが検出されたことを告げられた。アンプリコア法で69だったが、CRT−PCRではIFN治療前と同じ「10の4.5乗」となっていた。GPT/GOTは49/27に悪化していた。終わったな、と思った。これで治癒の可能性はなくなったわけだ。今後のことを考えて、私は暗澹たる気持ちになった。肝不全で死ぬのは仕方ないとしても、そこに至る「手続き」を、私は気が遠くなるほど煩わしいことに感じた。

 3月以降、ウィルス量はアンプリコア法で約300という、IFN投与前とまったく同じ値になった。GPTは、リバウンドとして、4月19日に67まで悪化した後、再び下がり、6月以降は基準値内で推移することになった。IFNの効果には、ウィルスが完全に消滅する「完全著効」の他に、ウィルスは消滅しなかったが、持続的にGPTが基準値内に収まり無症候キャリアと同様の状態になる「著効」というのが、遺伝子型に関係なく10%あまりの人で実現することが知られていた。私も、その状態が長く続いてくれればいいわけだが、何しろ、1988年以前も、GPTが基準値内で推移するかと思えば高くバウンドするという状態だったので、基準値内に落ち着いても、それがIFNの効果なのかどうかはよく分からなかった。

 東北労災病院のS医師の所に通うのは、S医師に事情を話すことなく、7月で止めた。あまりにも重労働で、通常の検査のために通う気にはどうしてもなれなかったからである。そして、相変わらずグリチオール錠を飲みながら、K医師の元で2ヶ月毎の血液検査と半年に1度の超音波検査を受けることにした。

 IFNの効果はあったと言うべきで、この後長くGPTは15〜35くらいで安定した。この間、2003年に仙台市内の学校に転勤し、往復4時間近い電車通勤をするようになったが、相変わらずクラス担任を受け持ち、山岳部の顧問として、生徒とせっせと山に登っていた。もちろん「基準値内」とは言っても、本当に正常な人はGPTがたいてい10代なので、決して「正常値」とは言えなかったし、GPTの方がGOTよりも高いという慢性肝炎の特徴は数値に表れていた。それでも、安定期間が5年も続くと、IFNによってウィルスが変異して無症候キャリア化したのではないかと、期待も込めて思うようになっていた。私は、2ヶ月に1度の検査を時々サボるようにもなった。

 2004年末〜2005年初め、私は家族で広州・香港を訪ねた。娘が2歳になって国際線に料金が発生する前に一度海外に行っておこうという、ただの物見遊山であった。娘は1歳11ヶ月で、何不自由なく歩き回っていたが、雰囲気の違いを敏感に察知してか、中国に着いた瞬間に一歩も自力で歩かなくなってしまった。仕方がないので、抱いて歩くことになったが、私は大きな疲労感に苦しんでいた。1日が終わると倒れ込むように眠ってしまった。いくら娘を抱いて歩くとは言っても、通常、山に行く時の荷物の重さと大差ないので、この疲労感は尋常ではないと思った。私は、肝炎の再燃を心配した。帰国直後、山岳部の山行が予定されていたが、初日、スキー場の中にある某山小屋まで行って天気予報を聞いていると、翌日「二つ玉低気圧」の発達という最強の冬型が出現し、山は大荒れになるというので、行動を打ち切って下山した。帰国後も強い疲労感が抜けなかった私は、本当に救われた気がした。帰宅後、検査を受けると、6年ぶりで基準値外の値が出たが、GPT48という軽微なもので、大きなバウンドを起こすことなく、すぐに沈静化した。それからまた2年以上が、特に変化のないままに過ぎていった。後から思うに、この時、やはり肝臓の具合は非常に悪かったのであって、その状態を必ずしもGPTが正確に反映してはいなかった、というだけなのではないだろうか?

 ところが、2007年7月下旬のある日、私は勤務先の養護教諭から呼ばれた。7月4日に実施した職場検診の結果が返って来たが、尋常ではない、一刻も早く病院に行った方がよいのではないか、ということだった。その時、GPTは実に717という未だかつてない高値を示していた。「717」という数字に、私は目を疑った。言われてみれば、少し疲れやすいような気がしていたが、「学期末なので、新学期以来の疲労が溜まっているのだろう」程度にしか考えていなかった。採血から結果が出るまでの間、私は恒例の学校行事「網地島巡検」にも行き、夏山合宿を前にしたトレーニングにも同行していた。