C型肝炎の記録(10)・・・症状と「肝炎訴訟」



 治ってから、肝炎の症状について時々考える。というのも、肝臓が「沈黙する臓器」であることもあって、症状はあったとしても非常に緩やかに表れるため、それと気付かず、治ってみて始めて「あれは肝炎の症状だったかも・・・」と自覚されるからである。ただし、勤務先や家庭環境、年齢等、その時その時、条件が違うので、本当に肝炎と関係があるかどうかの断定はできない。

1:不眠・・・私の場合、よく言われる「疲労感」というものは、ごく一時(GPT200超?)を除いて通常の疲労感と区別が付かなかった。むしろ、肝炎が治って解放されたと思ったのは「不眠」である。これは、治癒の前後で絶対に違うと思う。私は以前、常に睡眠導入剤ハルシオンレンドルミンを持ち歩いていて、特に自宅以外で寝る時には必ずといってよいほど服用していたが、今は必要ない。

2:鼻血・・・2005年頃からだっただろうか?冬になると、時々鼻血を出した。量は少なかったが、以前「大人の鼻血は危ない」と聞いたことがあったので、病院に行った。(2)で書いた通り、私は昔、鼻の大手術をしたため、鼻の奥の形が左右アンバランスに変形している。広い空洞になっている右の奥の粘膜が薄く、乾燥しがちで、特に乾燥しやすい冬に、ちょっとしたきっかけで出血するのだろうと説明を受けた。肝臓がダメージを受けると、血小板が減少する。慢性肝炎と肝硬変の区別は、血小板数で出来るほどだ。私は、2007年でも、血小板が20〜22万ほどあって(基準値14〜38)、決して少ないわけではなかった。しかし、肝炎が治癒して以来、間違いなく冬の鼻血は止まった。

3:腰痛・・・私は腰痛持ちである。ぎっくり腰だけではなく、徐々に痛みが強くなる場合もある。その頻度が、肝炎の悪化とともに密になっていた。特に2006年頃からは、少し不自然な姿勢を取るとすぐにぎっくり腰になるほどであった。治癒の後も腰痛は起こるが、減った。知り合いである東北大病院の整形外科医にこんな話をしたら、「そんなわけがない」と言っていたが、私の実感としては関係がある。

4:その他・・・2007年7月、GPT717を記録した時、私はそれに気付かず、前任校の恒例行事「網地島巡検」に行った。石巻市の網地島に渡り、民宿泊まりで地層や植生の観察をするというものである。2日目、好天の下、わずか半日、磯で生物や地層の観察をしたところ、ひどい日焼けで夜も眠れないほどになった。この時だけの現象ではあるが、GPT値の高さとこの日焼けは無関係ではあり得ない。また、GPT値が高い時期に、右の一番下の肋骨にはっきりとした違和感を感じることはあった。

 以上、見てくると、「肝心要」と言う通り、「肝」は重要な臓器で、全身に一見肝臓とは関係ないようないろいろな症状を引き起こす総合病であると思う。

 ところが、私のレベルであれば、慢性肝炎を患っていた時に最も辛かったのは、上のような症状ではなく、ぼんやりとした将来への不安と「酒の席」であったように思う。酒の席は臭くて騒々しくて、しかも時間が長い。それが分かったことも「怪我の功名」として捨てたものではないが、やはり歓迎すべきことではなかった。

 今は、そんなこともあまり気にならない。気心の知れた人と、酒を飲みながら四方山話にふけることは楽しいことである。酒そのものも実に美味い。それらを本当にしみじみと実感できるようになったのは、病気のおかげである。

 最近知った話、IFNによって慢性肝炎が治癒した人は、その後の生存率が病歴のない一般の人よりも高くなる(=長生き)傾向が認められるそうである。理由は諸説あるが、正確なことは分かっていない。結核に罹った人はガンになりにくいというデータがあって、かつてそのことを利用した「丸山ワクチン」というガンの特効薬が作られたりしたこともあったが、肝炎の人は血管疾患(動脈硬化など)に罹りにくいというデータがある。IFNで肝炎が治った後も、そのような慢性肝炎のメリットは温存されるということなのではないか、という説に、私は説得力を感じる。

 いくら病気にかからなくても、人生など、いつどのような事情で途切れるのか分からないのだから、そんな話で喜んでいるわけにもいかないが、決して悪い話ではない。治ったからこそ言えることだが、「上咽頭線維腫」以来の病歴の人生経験としての価値も極めて大きい。医療技術や医療を巡る様々な社会問題についても勉強をさせてもらった。人生において、一体、何が幸せで、何が不幸せかなど見当がつかない。幸せは不幸せの始まりであり、不幸せは幸せの始まりである。こういうのを「塞翁が馬」と言う。と言えば、今の状態は次の不幸せへ向けてのステップであるようだが、まずはそんなことは考えず、今の幸せを心から感謝しながら享受しようと思う。


【後日談・・・C型肝炎訴訟について】

 C型肝炎の感染経路については(2)で書いたが、これは典型的な「医原病」であると言われている。中でも、1988年以前の一時期に止血剤として「フィブリノゲン」「第9因子製剤」の使用が認められていたのは、その危険性に対する政府の認識が甘かったとして、2002年以降に各地で訴訟の動きが起こった。2006〜7年に、相次いで高等裁判所による判決が出たところ、仙台を除く各裁判所で基本的に国が敗訴した。その後、原告・被告双方が控訴したため、和解へ向けての動きも起こったが、国は、2008年1月に被害者救済のための特別措置法(いわゆる「C型肝炎感染被害者救済法」。以下、救済法と略)を議員立法の形で成立させた。これが、C型肝炎訴訟の概略である。

 救済法が『官報』に公示されたのは、2008年1月16日、私がペグIFNの投与を終える1週間前であった。私の母によれば、私が上咽頭線維腫の手術を受ける時、間違いなく血液製剤を使用するという説明があったそうである。時期的にも問題なさそうであった。となれば、私は救済対象に該当し、2000万円の給付金を受け取れることになる。

 私は、自分の肝炎が治癒したと早い段階で確信していた。救済法で、肝炎が治癒したかどうかは問題とされていないが、治癒したとなると、膨大な給付金をいただくのは治療中である以上に気が引けるものである。しかも、私は本当に政府に責任があるのかどうかよく分からなかった。最近の多くの事件・事故にあるように、辛い目にあった人間が、その怒りをどこかにぶつけなければ気が済まなくなり、その矛先を国と製薬会社に向けただけではないのか、と思っていた。生活習慣病や、明らかな公害によるものを別にすると、病気は「運」だと思っていたのである。だから、私は政府に2000万円を請求する気にはなかなかなれなかった。「ゆすり」「たかり」の一種のように思われたのである。

 一方で、肝炎が治癒した上、2000万円も転がり込んでくるのは美味しい話だという誘惑もなかったわけではない。子供二人の大学卒業までの教育費が、全てそのお金だけでまかなえるのである。

 まったく積極的な気持ちがないまま、「どんなものかやってみるか」程度のノリで、私は請求してみることにした。もちろん、2000万円という大金を受け取るわけだから、昔身内が聞いた話に基づいて申請書を1枚書く、というだけでは済まない。それらの血液製剤の使用を証明するカルテなり手術記録なりを手に入れて、一応、形式的にではあるが、裁判所に訴えを起こさなければならないのである。大金が目の前にちらついていながら、「まったく積極的な気持ちがない」と書けば格好をつけているようだが、正直な話、私は、自分の昔のカルテや手術記録というものを見てみたいという好奇心の方がはるかに大きかった。特に、手術記録については、今回このような話があるまで、そのようなものの存在すら知らなかったのである

 証拠となるカルテ・手術記録の入手について、私は楽観していた。いやしくも、大学病院は医療機関であると同時に研究機関である。いくら30年以上溯るとは言っても、学術のためにいつ価値を生ずるか分からない「記録」を捨ててしまうわけがない。私は5月のある日、東北大学病院の医事課というところに電話をした。経緯は省くが、結局、8月の末に至って「カルテも手術記録も見つからなかった」という回答があった。「世界リーディングユニバーシティー」を標榜する、研究機関としての東北大学なんてこの程度のものか、と思った。

 上に登場する大学病院の整形外科医にこの話をしたところ、「診療科によって文書の保存は異なるので何とも言えないが、カルテはともかく、手術記録が残っていないというのは信じがたい、私が探してみよう」と言った。私は冗談交じりに、「見つけたら500万円あげるよ」と言ったが、多忙な生活の中で忘れられてしまったと見えて、その後、会う機会があってもこの件は話題にならない。私の側から、改めて話題にする気もない。財源の問題等から、国が大学病院に対し「文書は出すな、処分したと言え」と圧力をかけていたとしても、私には確かめようがない。

 というわけで、私が2000万円を受け取ることはなかった。お粗末な話であるが、「記録」であるから補足しておく。

C型肝炎の記録:完)