資料と古典



 年末に遊びに来た卒業生某君と話をしていて、以下のような質問を受けた。

「先生は、本の整理どうしてますか?僕の所、本がたまって困っているんですけど・・・。」

私は答えた。

「確かに置き場所には困るねぇ。だけど、出来るだけ捨てない方がいいと思うよ。本は古くなると資料に変わるからね。古典に変わる本もあるけど、そんな本は後からまた手に入る。だけど、資料に変わった本は手に入れるのが難しい。」

 ところが、この言葉を最も必要としていたのが「私」であったことに、私は間もなく気付くことになった。

 私は昨日まで、自分の病気について記録の整理をしていた。誰かに読んでもらいたいというのではない。自分自身で整理しておきたかっただけである。記録はけっこう詳細に残してあった。ところが、「全て」ではなかった。当時持っていたC型肝炎についての本や雑誌論文のコピーが、ごく一部を除いて無いのである。あわてて、近くの古本屋(Book Offの類)を探してみたが、過去数年が関の山で、15年か20年も前の本など100円均一本にさえない。当たり前だ。現在、治療のために必要としている人しか、この手の本を探したりはしないであろう。ネットで探すとそれなりに見つかるが、Amazonの1円本にはなく、どれもこれも定価に近い値段である。バカバカしいので、取り寄せるのは止めた。

 かつて、『地球の歩き方』を集めたことがある。私が以前旅行した場所を、当時はこんなガイドブックは出版されていなかったが、出来るだけ近い時期のものを手に入れることで、いろいろなことを思い出し、考えるための情報源にしようと思ったのと、一昔前のその地域の社会の様子を知るためには非常に便利であることに気が付いたからである。ところが、これも難しかった。特に、最も欲しかった東欧革命以前のソ連や東ヨーロッパのものは入手困難で、仮に発見できても、プレミアが付いて高価だった。私は、かつて所有していた1983年版「ヨーロッパ」を捨ててしまったことを、激しく後悔した。

 邪魔になっている本の中で、どれが、いつ必要になるかなど分からない。さすがに「本」だけのことはあって、これは人間の知識や経験の性質とまったく重なり合う。本は整理しやすい形状、傷みにくい素材ながら、とにかく重いので困る。しかし、どんな本でも、必ず「資料」に変わり得る。こんな本は必要ないと安易に判断してはならない、と自戒したことであった。