利益に群がる



 橋下徹氏率いる「大阪維新の会」が勢いづいている。次の国政選挙をにらんだ政治塾に、10万円以上のお金を払って、全国から3000人以上が応募したとは恐れ入る。既成政党も、維新の会とどのように距離をとったらよいのか、あれこれと考えているようである。そんな中、昨年11月の大阪市長選挙で、市交通局の職員情報を記載した橋下氏と対立する平松氏側の「知人・友人紹介カード」配布回収リストが作成され、組合の仕業ではないかと疑われていた事件について、正採用を狙う非常勤嘱託職員のねつ造であったことが発覚した。橋下氏が非常に嫌っている組合という組織を陥れ、橋下氏の歓心を買うことが目的であったとの情報も流れた(ネットで読んだだけ。新聞等でこれが記事になったかどうか不知)。

 私は、この3ヶ月くらいのそれらの動きを見ながら、「来た、来た」と思っていた。橋下氏がいかにも民心のツボを心得た威勢のいい言動をとると、大衆が注目してなびき始め、人々が群がると、時流に乗り遅れまいと考える人々が更に集まるという構図だ。「寄らば大樹の陰」、多数勢力に同調していれば安心感があり、気楽である。「君が代」問題ではないが、人から変な目で見られたり、不利益を被ったりする心配はない。学校における「いじめ」で、いじめる側にまわる心理と同じである。

 ここに見られるのは、「何が正しいか」ではなくて、「どうするのが得か」という発想である。いや、「俺は何が正しいかを考えた結果の維新の会だ」という反論はあるだろうし、もちろんそれが本当の場合もある。しかし、人間というのは、「どうするのが得か」考えた結果として主義主張に賛成した場合、利益に目がくらんだと考えるのはそれなりに後ろめたいため、後付けでそれを正当化し、正しいこととして解釈してしまうのも得意である。しかも、それに気付いているとも限らない。これが難しいところだ。

 人間は、基本的に「正しい生き方」を考える人と「得な生き方」を考える人の二つに分かれる、と私は常々思っている。前者は「理念に基づく生き方」、後者は「相対的な生き方」である。高村光太郎流に言えば、「原因に生きる」生き方と「結果を考える」生き方、ということになる。もちろん、中間状態はあるし、理念を逸脱しない範囲でなら利益の追求も悪いことではない。

 残念ながら、政治などというものは、利益の追求である場合が多く、「正義を実現した結果としての幸福」が追求される可能性は低い。しかし、相対的な思考、利益を優先した考え方というものは、最初のうちは人を喜ばせるが、最後には行き詰まるものである。つまり、ここまでで私が言ってきた「利益」とは、目前の利益に過ぎない。一方、理念とか正義というものは、長い時間の後にいよいよ真価を発揮する。人が長く幸せでいるためには、理念を追求することこそが利益になる。しかし、理念を手に入れるためには、長い射程と哲学的な思考の忍耐とが必要なので、大衆は見向きもしない。

 維新の会が勢いづけば勢いづくほど、「利益」を求める人々が群がり、社会は正義から離れていく。