藤野厳九郎記念館・・・その2



 『仙台における魯迅の記録』によれば、藤野先生は、1874(明治7)年7月1日に、現在の福井県坂井市下番で医者の家庭に生まれた。愛知医学校(現名古屋大学医学部)を卒業後、多少の紆余曲折を経て、1901(明治34)年10月から、仙台医学専門学校で解剖学の教員(嘱託講師→教授)となり、それを1916(大正5)年まで勤めた。藤野先生が仙台を離れたのは、医学専門学校が東北帝国大学医学専門部(間もなく医科大学)に昇格するに当たり、学歴が不十分であるとして、任用を打ち切られた(実質的に解雇)ためらしい。先生は東京に出て、三井慈善病院(現三井記念病院)の耳鼻科医師となるが、1917(大正7)年秋には、郷里へ戻り、翌春に開業した。亡くなったのは、終戦を目前に控えた1945年8月11日であった。わずか71歳の老衰による死であった。

 その事跡をたどると、清廉潔白、謹厳実直そのもの、悪く言えば相当に偏屈な頑固親父であったようだ。仙台医専時代は、もともと面白味のない基礎科目を担当していたのに加え、徹底的に真面目で授業は厳しく、点数の付け方も辛くて、落第をたくさん出した。笑顔を見せることもほとんど無かったため、学生からは相当に煙たがられていた。

 この先生が臨床医となった時、学生に向ったのとはまた違った慈父の顔を見せることになる。「医は仁術」の信念に従い、自ら借金で苦しみながらも、貧乏人からは金を取らず、しかも他の病院では出さないような高価な薬を惜しみなく使った。甘えた人や、曲がったことは大嫌い。身なりに頓着せず、自分の子だけではなく、子どもを大切にした。兄が亡くなると、自分の病院を閉じて、兄の病院を継ぎ、自宅から、7時の電車で病院に出掛けて、5時まで診療という生活を毎日続け、人々の信頼と敬慕とを集めた。中学校の先生と囲碁を打つのが、先生の唯一の楽しみであったという。

 なんという質朴な人であろうか。日本人の学生から疎まれていたとは言っても、魯迅のノートを丁寧に添削する姿に何の違和感もない。学業から手を抜こうとする者、人をごまかそうとする者に対して厳しかっただけである。まったく偶然、魯迅と出会うことによって、藤野先生は後にその名を知られるようになった。しかし、おそらくこのような人は、今も昔も日本の社会にそれなりにたくさんいるだろうし、このような人だからこそ名を知られることもないのだと思う。そして、このような人がいるからこそ、私たちはこの世で、安心して生を営むことが出来るのだ、とも思う。

 藤野先生は、前述の旧『魯迅選集』が刊行された直後、中学生だった長男の漢文の先生によって、そこに自分をテーマとする作品が収録されていることを知った。かつて医学生であった周樹人が、その後、中国を代表する大作家となったことも、この時に知ったようである。


 「私のことを唯一の恩師と仰いでくれていたそうですが、私としましては最初に言いましたように、ただ、ノートを少し見てあげた位のものと思いますが、私にも不思議です。(中略)私は少年の頃、福井藩校を出て来た野坂という先生に漢文を教えてもらいましたので、とにかく支那の先賢を尊敬すると同時に、彼の国の人を大切にしなければならないという気持ちがありましたので、これが周さんに特に親切だとか有難いとかいう風に考えられたのでしょう。」(藤野「謹んで周樹人様を憶う」初出『文学案内』昭和12年3月)


 記念館に見るべき物は何もない。価値があるのは藤野先生の診療所兼自宅である。それは、さほど大きくない2階建ての日本家屋である。先生が診療していたという玄関際の部屋は、わずか3畳の畳部屋で、当時とは異なるだろうが、小さな椅子が2脚と棚がひとつ置いてあるだけであった。隣の6畳間が処置室であろうか。この狭い所で、あのにこりともしない厳つい風貌の藤野先生が背中を丸めて診療に当たっていたことを思うと、なんとも微笑ましい気分になる。それは、懐かしさにも近い感情である。清廉潔白、謹厳実直だったという藤野先生の人柄が、頭の中で想像されるからであろう。同時にそれは、混乱の中国にあって多忙に疲れた時、藤野先生を思い出すという魯迅の思いにも近かったのではあるまいか?(完)


補1)遊んだ話ばかり書き連ねてきたが、NIEの全国大会には真面目に出ていた。NIEについては思う所いろいろあるので、またいずれ書くことにしよう。

補2)7月日に予告した通り、明日から2週間ほど休筆します。