「延安」旅行案内(7)・・・抗日軍政大学



 延安には多くの学校があって、抗日解放戦争を指導する人材を育てていた。先日書いた魯芸もその一つである。しかし、何と言っても、最も有名なのは抗日軍政大学(抗大)と陜北公学(陜公)だろう。自分の専門とは言えないが、少なくとも抗大くらいは訪ねてみようと思っていた。

 ところが、延安で買った「延安市街区交通旅游地図」という都市地図は、革命時代の旧跡をかなり丁寧に拾ってあるにもかかわらず、それら二つの学校は書かれていない。魯芸や中国女子大、馬列(マルクスレーニン)学院、中央党校、民族学院といった学校は載っているのに・・・である。不思議だった。更に、『歴史文化名城 延安』というガイドブックにも、学校の旧跡については魯芸を除いて説明がなく、革命関係の旧跡一覧にも、陜公はあるが、抗大はない。延安の学校については、『中国抗日戦争史地図集』(中国地図出版社)にも簡単な地図が載っていて、私はそのコピーを持参していたが、非常に縮尺の小さな地図なので、現地でその場所を探すには適当でない。私は、鳳凰山革命旧址の管理をしていると思しき人に尋ねて、抗大を探し当てた。

 「探し当てた」という表現は大げさである。私がたまたまそこを通っていなかっただけであって、尋ねなくても、延安の中心街を歩いていれば、自ずから目に入ってくる、それほど繁華街(二道街)のど真ん中のような場所に「抗大」はあった。延安市街地(城内)が日本の空爆によって壊滅した後も、抗大はなぜか場所を移すことなく、城内に留まった。現在、抗大跡の目印は、「抗大賓館」というホテルである。抗大の跡地に大きなホテルが建ち、抗大の名前を冠し、建物の一角に抗大博物館を有する。抗大の正門は当時と同じものかどうかは分からないが、少なくとも形としては写真で見る抗大の門と同じものが残っている。門の両脇には、「団結、緊張、厳粛、活溌」と校訓が大書されている。これも毛沢東の親筆らしい。当時を偲ばせるものは、この正門だけである。

 抗大とは、共産党江西省瑞金でソビエト共和国を作った際、軍の幹部を養成するために「工農紅軍学校」を開校したのが始まりで、それは1933年11月7日(ロシア革命記念日)に「紅軍大学」となり、長征をはさんで、1936年6月保安で「中国抗日紅軍大学」、そして1937年1月に延安で「中国人民抗日軍事政治大学」となった。延安の抗大は、校長が林彪、副校長が羅瑞卿である。

 革命や抗日に志を持つ全国の青年が、この大学への入学を希望して延安を目指したが、1937年7月の第2次国共合作後、その数は急増し、受け入れが追いつかなくなってしまった。詩人何其芳は『回憶延安』の中で、延安から西安までの道にある全ての電信柱に「抗大学生募集停止」「抗大満員」のビラが貼られたことを伝えている。そして、なかば抗大に入れない学生の受け皿として、同年11月に生まれたのが陜北公学であった(校長は成仿吾)。陜北公学は、開校当初、延安の中心に近い清涼山にあったが、短期間で、延安の市街地からは7〜8キロ離れた楊家湾という場所に移った。

 延安について語った文書の至る所に「抗大」の名前が見えるにもかかわらず、抗大自体を扱った書籍や文書は、意外に少ない(私が知らないだけの可能性も高い)。地図に載っていないことと合わせて、不思議なことである。そんな中、陳学昭の『延安訪問記』(『中国現代文学選集』第16巻、平凡社に、上の何其芳の『回憶』と一緒に訳が収められている)は、これらの学校について多くのページを費やしている貴重な本である。それによれば、抗大と陜公は、姉妹校的存在でありながら、それぞれに特色があった。世間では、抗大の方が陜公よりも精神がよいと評価されているが、陳は、陜公の学生の方が文化水準において抗大生よりも粒が揃っていると評する。また、抗大が軍事:政治=7:3であるのに対して、陜公は3:7であった。カリキュラムの資料を私は持っていないので、真偽は確かめられないが、抗大の方が軍幹部の養成を意識していたというのは、その名前から考えても自然な話であろう。

 魯芸と同様、「大学」という名前に惑わされてはいけない。大学らしい校舎があったわけではなく、基本的に青空の下で授業は行われた。もちろん、各自の椅子や机などない。窰洞や平屋のぎゅうぎゅう詰めの寄宿舎があったばかりである。陜公が開校した1937年11月に延安を訪ねた中国人記者馬駿は、当時の抗大の学生数を1000人余りとしている。戦況が逼迫しているので、以前は6ヶ月だった学習期間を、2ヶ月に短縮したとも書く(『抗戦中的陜北』揚子江出版社)。2ヶ月!?!?しかも、陳によれば、抗大の選抜基準は、学力ではなくて、「抗戦に対する信念の強さ」だったという。あらゆる「常識」の通用しない場所、それが延安であった。