サー・ゲオルク・ショルティ



 昨日マゼールについて書いたついでに、ショルティについて書いておこう。と言っても、この二人の間に何か関係があるわけではない。20世紀を代表するような高名な指揮者について、なんとなく書いておこうという気になったという、私の内部問題である。

 1ヶ月半ほど前(10月26日)に、ブルックナーの第8交響曲の録音をあれこれ聴いているという話を書いた。その時書いたとおり、圧倒的に感動的なのはチェリビダッケミュンヘンフィルであるが、その正反対、退屈で聴いていられないのはショルティであった。ショルティの録音は、1990年のサンクトペテルブルクにおけるシカゴ響とのライブ録音である。ライブでこれほどつまらないからには、スタジオ録音だったらと思うと、寒気がするほどである。延々と長い80分であった。

 ショルティという人は、指揮者として平凡だ無能だと言うつもりはまったくない。面白い(感動的な)演奏と、つまらない演奏と、まったく分かれる人だなというのが私の印象だ。我が家にある録音で言えば、私が最も気に入っているのは、ベルリオーズファウストの劫罰』、次はワーグナー管弦楽曲集、バルトークの『オーケストラのための協奏曲』あたりで、マーラーやバッハもまずまず。反対にまったく面白くないのは、ベートーベンの第5交響曲ショスタコーヴィチの第9交響曲を合わせた1枚(2曲とも退屈。ベートーベンの5番のような極めて構造的な曲を、優秀なオーケストラでこれほど退屈に演奏することが可能だということにむしろ驚く)、次にブルックナーの第8交響曲だ。

 中野雄『ウィーンフィル 音と響きの秘密』(文春新書、2002年)に、ショルティは、ウィーンフィルとトラブルを起こした指揮者として登場する(もう1人登場するトラブル指揮者は、奇しくも昨日取り上げたマゼールである。)。それは、楽譜の縦のすじを揃えるか揃えないかという問題だ。オーケストラ側の言い分は、「ウィーンフィルの柔らかく美しい響きは、各楽器間の微妙なズレから生まれる。それを一分の隙もなく揃えたら、ウィーンフィルウィーンフィルではなくなる」というものである。これに対してショルティは、「とにかく揃えろ。揃わないということはミットモナイということだ」と頑張る。その結果、何人かの楽員はショルティを忌避して、リハーサル途中で帰ってしまう。

 上で、つまらない演奏の筆頭として挙げたベートーベン+ショスタコーヴィチの1枚など、ウィーンフィルを振ったライブで、徹底的に音が揃っていながら、どうしようもなく退屈だという、そんなトラブルの申し子のような録音である。だが、これによって、ウィーンフィルの勝ち、ショルティの負けとは言えない。なぜなら、すばらしい録音の筆頭格として挙げたワーグナー管弦楽曲集もまた、オーケストラがウィーンフィルで、音を揃えるという点において同様でありながら、こちらは感動的な演奏なのである。では、自らが音楽監督を務めるシカゴ交響楽団ならどうかと言えば、これまた、上で感動的な録音として挙げたベルリーズやバルトークもシカゴなら、退屈の極み、ブルックナーもシカゴなのである。

 つまり、演奏に関しての信念も、どのオーケストラを振るかも関係なく、場合によっては感動的、場合によっては退屈、これはもう、曲(作曲家)との相性で決まっているとしか考えられない。そして、ショルティユダヤハンガリー人(後に英国籍)であることを考えると、バルトークマーラーの名演は「血」の問題かな?と思ったりするが、これはベルリオーズワーグナーには通用しない理屈だ。

 ショルティ自身は、どれについても「これがいい」と思って演奏しているわけだし、私が、こっちはいいけどこっちは悪い、などと言っても、理解できないことだろう。というわけで、結局言いたいことは、昨日と同じことになる。音楽の感動というのは得体の知れない不思議なものだ、ということである。