渡波で御用納め



 今日は御用納め。鳴子から戻った翌日から3日間は、学校に行った。石巻北高の校庭に建つプレハブ校舎ではなく、渡波の水産高校である。そう。宮水は、12月22〜23日に引っ越しをして、元の校舎に戻ったのである。復旧したのは校舎だけで、実習施設の復旧はまだまだ道半ばにも達していないので、手放しには喜べないが、復旧への大きな一歩であることは間違いがない。

 県は本格的なクリーニングをしてくれなかったが、私が修学旅行の代休で出勤しなかった19日に、1、3年生がせっせと掃除をしてくれたおかげで、校舎内は思いの外にきれいだ。しかし、校地内にある松や杉といった針葉樹はすべて立ち枯れている。26日に学校に行った時には、職員玄関にも生徒昇降口にも下駄箱がなく、がらーんと無駄に大きな空間が寒々と広がっていた(その日の午後に、新しい下駄箱が設置された)。職員の休憩室には、日めくりカレンダーが2011年3月11日のままぶら下げてあった。事務室前の、宮城丸の現況を生徒に伝えるための北西太平洋の地図黒板(←『それゆけ、水産高校!』18ページ参照)には、「宮城丸、3/16日三崎入港。生徒皆船内待機」という言葉が殴り書きされたままになっている。太平洋上で津波とすれ違った宮城丸が、変わり果てた石巻工業港に戻ってきたのは3月27日のことなので、宮水がまだ避難所だった時期に、誰かが書いたのだろう。御用納めの今日になっても、誰も消そうとしない。日めくりカレンダーも同様だ。これらはもちろん、「震災の教訓を伝える」などという目的で残されているわけではない。よく分からないけど、なんとなく手を触れるのがはばかられるのだ。それらを見ていると、被災した当時のことが何ともリアルに、切なく蘇ってくる。もしかすると、そのような名残を留めたまま、新学期の授業が始まるのかも知れない。

 3時過ぎに、本当に久しぶりで栽培実習場に行った。今の状況を見ておきたいという思いもあったし、栽培漁業類型の先生方に、歳納めの挨拶をしたいという気持ちもあった。既に誰もいなかった。一昨年は、出産間近のメバルやタケノコメバルがたくさんいて、それらの様子が気になるので、正月も毎日出てくることになるだろうと、一部の先生が、おっくうそうでもなく、むしろ少し嬉しそうな顔で話をしていた(←『それゆけ、水産高校!』117ページ参照)のに・・・である。水中ポンプを使って小さな水槽で若干のナマコその他を飼っているだけで、大きな水槽は全て空である。

 元の校舎に戻り、広々とした図書館(仮設校舎の3倍?!)などを見ていると、明るい新学期を思い浮かべるが、復旧への道はまだまだ遠く、先が見えない。悲喜相半ばするなんとも複雑な気分で2012年を終えた。