大器晩成・・・ブルックナーにおける様式の確立



 昨日の午後は、NIEの会議と学習会のため、仙台市河北新報本社へ行った。これについては特筆すべきことがない。ただ、この会議があったおかげで、仙台フィル定期演奏会に行けた。

 小泉和裕指揮によるブラームスのピアノ協奏曲第1番(独奏:マルクス・グロー)とブルックナー交響曲第2番という、超重量級のプログラムである。なにしろブルックナーを演奏するので、行きたくて仕方なかったのであるが、同じ週の月曜日に佐渡裕があったこともあり、家族への遠慮とか時間の確保とかいう難問があって、あきらめかけていたのである。これで今年度は、マーラーを2曲(第2番、第8番)、ブルックナーを2曲(偶然にも同じく第2番、第8番)聴けた大曲イヤーとなった。

 小泉和裕の演奏には1980年(独奏者がムスティスラフ・ロストロポーヴィチ!!会場は大阪)以来、幾度となく接する機会があったが、本当に素晴らしいと思えたことは一度もなかった。なんとなく無難なだけで、つまらない演奏なのである。私の期待は、ブルックナーにだけあった。

 昨日も、ブラームスがほどほどに終わり、ブルックナーもほどほどに曲が進んだ。私の印象が一変したのは、第2楽章が始まって間もなくである。そしてこの後、最後まで本当に素晴らしい演奏を聴かせてもらった。ブルックナーの厳粛な世界を、ものすごい緊張感とデリカシーをもって構築したいい演奏だった(音楽家というのは、本当に大変な肉体労働者ですね)。

 ところで、ブルックナーの第2交響曲は、彼の作品の中でも特にマイナーなもので、私も実演で聴いたのは初めてである(多分仙台初演だろう)。『名曲解説全集』なぞをパラパラと見てみると、「ブルックナーの全交響曲の中で、最も人気のないものとされている」などと、何とも気の毒な評価を下されている。しかし、仮にそれが本当だったとして、人気と価値は必ずしも一致しない。私などは、ブルックナーが様式を確立させた曲として、それなりに高い評価をしている。ブルックナー交響曲というのは完成した第8番までに加え、終楽章が未完成の第9番までをカウントするのだが、1〜9番の他、第1番の前に第00番、第1番と第2番との間に第0番と呼ばれているものがあって、実際には11曲である。その中で、第0番と第2番の間には明らかな違いがあって、本当のブルックナーの世界は第2番から始まるのである。弦の微かなトレモロに載って静かで息の長い主題が開始される「ブルックナー開始」にしても、曲の途中で完全に音が途切れる「ブルックナー休止」、「トランペットの作曲家」と呼ばれるブルックナー独特の派手な金管ティンパニの使い方にしても、その後のブルックナー作品を特徴付ける様式は、全てこの曲で確立した。曲の長さも、第0番までが50分止まりであるのに対して、第2番は、その後の曲と同様70分だ。しかも、第4楽章こそ少し支離滅裂な感じがするが、全体として決して出来の悪い曲ではない。いささか極端な言い方をすれば、晩年の第8番、第9番という「人類の至宝」を別にすると、第2番〜第7番の価値はみな同じとさえ私には思える。

 様式を確立させたとは言え、この曲が最初に完成したのは1872年、ブルックナー48歳の時で、現在一般に演奏される楽譜の元になる改訂版が完成したのは1877年、実に53歳の時だ。ブルックナーの人生は、20年も残されていない。典型的な「大器晩成」型の人間だ。何かを借りてきて組み合わせるといった器用な要領の良いことが出来ず、自分で考え納得したものしか作ることが出来ない。それが大器晩成型の人間の特徴だ。ブルックナーの魅力の根底に、そんな彼の生き方がある。

 昨日の演奏会は、たった700席のホールに6〜7割の入り。これほど空席の目立つ定期演奏会は記憶にない。大変熱のこもった素晴らしい演奏だっただけに、残念でもあり、気の毒でもあった。これが、ブルックナーのような不器用な生き方は、現代には受け入れられない、というものでなければいいのだけれど。