新しい考古学・・・小林義武氏の死に際して



 昨日の新聞各紙には、音楽分野における重要人物2名の訃報を載せていた。一人は、NHK交響楽団桂冠指揮者のウォルフガング・サバリッシュ(89歳)であり、もう一人は世界的に著名なバッハ研究者の小林義武氏(70歳)である。

 サバリッシュは、N響でおびただしい数の演奏会に出演しているので、日本人にも馴染みが深いし、私が今更何を語る必要もない。私がむしろ感慨を抱いたのは、小林氏の方である。何冊かの著作の中で、私は『バッハとの対話』(小学館、2002年)という一般向けの本だけしか持っていないが、これは、現代におけるバッハ研究の様態とその成果に触れることが出来、なおかつ素人にも読みやすい好著だ。

 氏はゲッティンゲン大学ヨハン・ゼバスティアン・バッハ研究所と25年間に渡って世界のバッハ研究の中心地に在り、研究を重ねた。特にこの人が有名なのは、バッハの筆跡研究という分野においてである。20世紀の半ばに、バッハ研究所の所長であったゲオルク・フォン・ダーデルセンと副所長であったアルフレッド・デュルが創始した自筆譜の透かしと筆跡鑑定の手法を受け継ぎ、研究を進めて、『新バッハ全集』の刊行に大きな貢献をした。年代と共に、バッハの筆跡は変化した。彼の自筆総譜からパート譜を作るコピスト(写譜屋)の筆跡も、時間と共にバッハの筆跡に似てきたりするので、それを判別する作業も必要となる。ただひたすら地味で根気の要る、正に「研究」とはこういうものなのだ、というような辛気くさい作業である。それでも、氏を中心とする一連の作業とそれによる相次ぐ発見のおかげで、バッハの作品の作曲年代が正確に判定されるようになった。

 私が面白いと思うのは、彼の仕事が「考古学」だということである。一般に、文字が発明された後の時代を有史と称し、その時代については、文献によって考察をし、以前については物によって考察をする。学問の世界では、前者を史学と呼び、後者を考古学と呼ぶ。「史(ふひと)」は「文人」なのである。しかし、有史以降についても、物に基づいて考察することが非常に重要な研究のスタイルとなり得る(この場合、本当は「古文書学」という別な言葉が用いられる)。J・S・バッハという人は、作曲家の中で最も学問的な研究対象となってきた人だと思うが、その研究が、最新の50年間において、考古学となったことは面白い。

 データとして数値化できるものだけでなく、あたかも骨董品の真贋を見抜くような、蓄積によって人間の内部に生み出された、いわば「根拠ある直感」とでも言うべきものが価値を持つ世界でもある。だからこそ、そのような蓄積を持つ人が亡くなることは損失なのだ。『新バッハ全集』完成後、作業が一段落した中で、後継者が育っているのかどうか知らない。惜しい人が亡くなったものだと思う。合掌