「授業時数の確保」についての若干の考察(2)



 なぜ35かということについて、私なりの憶測を書いておこう。そこには、二つの理由がある。

 ひとつは、諸外国との授業時数比較をした結果、35くらい確保したいという発想で生まれてきたのではないか、ということだ。授業時数に関するデータは非常に分かりにくく、実際に行われている授業時数なのか、法で定められた時数なのか、1単位時間が何分か、といった条件が統一されているとは限らないので、はっきりしたことは言えないのだが、日本の学校の授業時数は、決して諸外国と比べて多いわけではない、というのは間違いないように思える。ただし、では35にすればイタリアやフランスのような授業が多めの国と肩を並べるかというと、これまたはっきりしない。

 もうひとつは、机上の空論で35は確保できるはずだと考えられたのではないか、ということだ。1年間は52週あるので、10週(今の規定を超える70日)休んだとしても42週も授業が確保できる。35は決して無理な数字ではない。むしろ、これだけ見ていると、どうして35が無理なの?という感じだ。ただし、1単位時間を35週という場合、時間割に組み込んであるというだけでなく、実際に35コマを確保することを求めているので、祝日とぶつかったために35にならなかった、というのも許されない。だから35を確保するためには、37〜8週必要で、これに最低限の行事として定期考査を加えると、42週で35コマが確保出来ることになる。もちろん、行事は一切無しだ。

 おそらくは、これらの結果として、35という数字は決められたのであろう。

 これがなぜ、日本の高校でとてつもなく高いハードルに思えるかというと、授業以外の仕事があまりにもたくさんあるからである。入学式、卒業式、体育祭、遠足、修学旅行、文化祭、マラソン大会といったいわゆる学校行事、進路ガイダンス、インターンシップ、進学講話といった進路関係行事、保健講話、制服講話、国際講話といった学習的行事、保護者面談、定期考査とその成績処理に関する作業、高校入試、PTA総会、部活の大会その他様々なイベントで、年間行事予定表はびっしりと埋め尽くされている。予定表を見ていると、息が詰まるような気がして、年度が始まる前からめまいを催すほどだ。それらの多くは、国や県が実施しろと迫ってきたものではなく、学校が必要と判断して入れているものである。

 日本の教員が多忙である要因として、他国との比較の中でよく語られるのは、文書類作成の多さだが、中学・高校については、その他に、部活、進路指導(「指導」と言うより「世話」)、問題行動発生時の特別指導がある。日本の学校では仕事として当たり前に存在する(?)これらの作業が、外国の学校にはほとんどない。日本の教員であれば、これらに8割のエネルギーを費やしていると考える人が多いのではないか?時期によっては(人によっては年から年中)、「雑務」の合間に授業に行っている人が少なくない。「ああ、授業がなければどんなに仕事が進むだろう!」とため息をついては、それを本末転倒だとか、倒錯だとか思うことさえ忘れている。

 つまり、「35」とか「授業の確保」ということが問題になる時には、決まって「授業が第一」「授業で勝負」というようなことが語られるのだが、学校生活の中心が授業であるというのは、まったくただの「タテマエ」もしくは「管理のための道具」(しかもこの「管理」は、何かのために必要な「管理」ではなく、「管理」のための「管理」だ)に過ぎず、実際には生徒の生活を丸抱えにしてしまっているのが今の学校であり、その中では35が確保できない、というだけなのである。

 35にこだわるなら、多種多様な行事類はオマケとしてそぎ落とすべきだし、それらが現在と同様に大切なのであれば、35はおろか、30にさえこだわるべきでない。この辺をどう考えるべきだろうか?(続く)