バッハ『音楽の捧げ物』・・・パイヤールの訃報に接して



 5月6日だったかの新聞に、ジャン・フランソワ・パイヤールの訃報が載った。亡くなったのは4月15日だという。パイヤール室内管弦楽団を組織し、バロック音楽の普及に大きな功績を残した、というのが公式の紹介として無難だろう。しかし、その活躍が華やかだったのは、おそらく1980年頃までで、その後は、レオンハルトブリュッヘンによる古楽器派が主流となり、いわば時代遅れなバロック演奏として忘れ去られていったように思う。

 訃報に接し、ひどく久しぶりで、我が家にあるパイヤールのCDを聴いてみようという気になった。特に、J・S・バッハ『音楽の捧げ物』は、かつて私の愛聴盤のひとつであった。そして、これを聴いていたところ、他の人による『音楽の捧げ物』も聴き直してみたくなって、この半月ほど『音楽の捧げ物』に浸っていた。

 大バッハ最晩年の作品のひとつ『音楽の捧げ物』は、楽譜が非常に謎めいた書き方をされている上、使用する楽器の種類、曲の順番など、判断に困る問題が数々存在する。それだけに、人によって演奏が大きく変わってくる。私がかつてパイヤール盤を愛聴していたのは、冒頭に置かれた「3声のリチェルカーレ」が、フルート、ビオラ、チェロで演奏されていて、それが美しいと感じられたからである。使用楽器に問題のある『音楽の捧げ物』でも、「3声のリチェルカーレ」は、楽譜の書き方からして、もともとクラヴィーア(鍵盤楽器チェンバロクラヴィコード)での演奏が想定されていたこと間違いないので、パイヤールは解釈の範囲を逸脱している、と言える。しかし、美しくすばらしいと感じられるのであれば、そんなことはどうでもいいではないか、と思っていた。今回、久しぶりでそれを聴いてみて、確かに美しくはあるけれど、この後に続く各種カノンやトリオソナタとリチェルカーレが差別化されず、似たり寄ったりの音楽になってしまっていて、果たしてこれがいいことなのかな?と少し疑問を抱くようになった。ただ、パイヤールの演奏というのは、多少ロマン的・通俗的であって、それが生き残れなかった要因だと思っていたのだが、実際には、バロック音楽の命とも言うべきコンティニュオ(通奏低音)が全体をしっかりと支えて引っ張り、決してバロック的でないとか、俗っぽいとかいう印象は受けなかった。まずまず立派なバッハであると思う。

 『音楽の捧げ物』は名曲である。「格調高い」という形容が非常にしっくりくる。それ以外に形容すべき言葉が見当たらないほどだ。とは言え、この言葉の意味は明確でない。試しに、『広辞苑』を引いてみると、「格調」について「詩歌の体裁と調子。転じて、文章・演説などについてもいう」と書いてある。他の国語辞典も似たり寄ったりである。よく分からない。しかし、やはりこの曲にはこの言葉こそがよく似合う。精神的な厳しさに満ちていて甘さがなく、かと言って冷たい音楽ではない。それが生き生きとしたバロック的躍動感の中で、何とも心地のよい響きを生み出す。半音階を多用した旋律も、実に魅力的だ。曲の力だな、と思う。煩瑣な規則にがんじがらめにされながら、むしろそれを楽しむかのように、あえて難しい様式を選択して、これほど自然で生き生きとした音楽を作り出したバッハという人にも圧倒される思いがする。

 我が家には六種類の録音があるが、敢えて言えば、あらゆるバッハの曲について常に峻厳なる演奏を聴かせてくれるカール・リヒターの盤(1963年録音)が、今でも輝きを失っていないような気がした。しかし、どうしてもリヒターでなければ、とも思わない。録音ごとに楽器編成や曲順がバラバラであるにも関わらず、優劣をつけられなかったことが、演奏より曲の価値であることをよく表しているだろう。