「TETRA」物語



 私の勤める宮城県水産高校に、「TETRA」という名前の船外機付き和船がある。最近、ふとしたことから、この船に関するある事情を思い出した。『それゆけ、水産高校!』にも書かなかったことだし、他愛もない話なのであるが、ちょっと書き留めておこうと思う。

 東日本大震災が発生した2011年の3月19日、私は学校で『石巻かほく』という新聞を読んでいて、ある写真に目を止めた。この時期、新聞は個別配達が行われておらず、避難所に行くと、入り口の所に『河北新報』『石巻かほく』『石巻日々新聞』といった地元紙が大量に置いてあって、タダで自由にもらうことが出来た。しかし、避難所になっていたにもかかわらず、なぜか宮水には届かないので、自宅に泊まった時は石巻高校まで取りに行き、学校に泊まった時は、自宅から出勤して来る誰かが持って来てくれるのを待っていた。この日も、そうして手に入れた新聞を読んでいたのである。

 私が目を止めた写真というのは、サンファンバウティスタ号の被災状況に関する写真の中の一枚で、サンファン号の船首を撮ったものなのだが、その手前になんと「TETRA」が写っていた。写真のキャプションには、「津波で運ばれた小さな漁船が打ち上げられていた」と書いてあるが、断じて「漁船」などではなく、水産高校の船である。「TETRA」はどこからか流されて、サンファン号の隣に漂着したのだ。

 私はこの日、朝一番で新聞を読んだわけではないので、誰でも知っていることだろうと思い、特に話題にする気もなかったのだが、たまたま近くに海洋総合科長のM先生がいて、手持ちぶさたな様子だったので、話のきっかけにと、軽い気持ちで「今朝の『石巻かほく』に、TETRA写ってましたね」と声を掛けたところ、いつも冷静なM先生が「ええっ?!」と大きな声を出し、「どこどこ・・・?」と非常に驚いた様子だったので、今度は私がことの意外さに驚いた。そして、新聞を見るや、状況確認のため、あわててサンファン館に走ったのである。震災後、「TETRA」の第一発見者は私である。

 M先生の驚きは、新聞の写真をその時初めて知ったから、というだけではなかった。なぜ「TETRA」がこんな所に?という驚きだったのだ。その後、私が聞いたのは以下のような話である。

 「震災の時、「TETRA」は艇庫の中にあった。船体がはげてきたので、某先生がペンキ塗りをしていた。某先生は、地震の揺れがあまりにもひどかったので、地震が収まるとあわてて学校に戻った。その後、艇庫に津波が押し寄せた時の状況を見ていた人はいない。津波がすっかり収まって、艇庫の状況を見に行った時には、建物こそ比較的きれいな状態で残っていたが、窓は破れ、鉄製の大きな扉は外れ、海に浮かべてあった和船「あさなぎ」が打ち上げられて仰向けになった上に、やはり海に浮かべてあったモーターボート「スピカ」が覆い被さって落ちていた。上架してあったカッターも2艇とも船台から落ちてひっくり返り、ひびが入ったり傷が付いたりしていた。ところが、中にあった「TETRA」は、なぜか見当たらない。周囲に打ち上げられた船をひとつひとつ確認してみたが、それでも「TETRA」はなかった。」

 なるほど、その「TETRA」がサンファン号の隣に落ちていたとなれば驚くわけだ。艇庫からサンファン館までは直線で1キロ。しかし、岬のような所を回り込まなければならない。艇庫界隈にあった他の船の動きとはまったく異なり、おそらく、「TETRA」だけは引き波によって艇庫から吸い出され、万石橋の下を上手くくぐり抜けて渡波港の沖まで流された後、第2波か第3波によって再び陸地に寄せられてサンファン号の隣に取り残されたのだろう。私は、このような事情を知らなかったため、当初は、ヨット部の救助艇として佐須ノ浜に係留されていて、そこから打ち寄せられたのだろう、と想像していた。これならただの直線だし、距離も500mほどに過ぎない。だが、津波というのはそんな単純なものではなかったのだ。

 「TETRA」は、エンジンも含めて、奇跡的にほとんど無傷だった。ところが、最初に確認に行った時には確かにあった船倉の燃料タンクが、次に行った時には、盗まれて無くなっていた。当時、被災地ではあらゆる燃料が不足していたので、新聞でサンファン号の前に知らない船が落ちているのを見た誰かが、その燃料タンクに目をつけたのだろうと思われた。

 「TETRA」はその後、トラックで回収され、若干の修理を施された後、現在は元気に活躍している。小さな船についての、小さな思い出話である。