中原中也についての貴重な証言・・・村上護氏の訃報に接して



 6月30日の新聞各紙に、文芸評論家・村上護氏の訃報が載った。71歳。たいていは氏の代表作として、デビュー作でもある『放浪の俳人山頭火』(1972年)を挙げるわけだが、私が見た範囲で、『読売新聞』だけが、それと共に、氏が『私の上に降る雪は』の編集者であることを書いていた。私の記憶に氏が甦ってきたのは、この記事を見たからである。

 『私の上に降る雪は』(1973年)は、詩人・中原中也の母・中原フクさんが息子の思い出を語ったもので、村上氏はそれを聞き書きの形でまとめた。私が中原や小林秀雄をせっせと読んでいた時期、この本は入手が非常に困難となっていた。今のようにインターネットで探すことも出来なかった時代、折に触れて東京の古書店を覗いては、田村書店でようやく手に入れたのを覚えている(今、文庫で容易に手に入るのは少し悔しい)。中原中也の弟である医師・中原呉郎氏が種田山頭火と親交のあった心酔者だという縁で、山頭火の研究をしていた村上氏と中原家の関係が生まれ、それがこの聞き書きを生むことになった。

 また、私は今回、我が家の書架で久しぶりに『私の上に降る雪は』を手に取ったことをきかっけに、長谷川泰子の『ゆきてかへらぬ』(1974年)も村上氏による聞き書きであることに気が付いた。これもずいぶん苦労して手に入れた本である。確か、十年以上も探して手に入らず、インターネットによる古書探しが可能となった初期に、この文明の利器を使って見付けたと記憶する(残念ながら、これも今は文庫で入手容易)。長谷川泰子とは、最初は中原中也、後に小林秀雄の愛人となった女性である。偶然、中原家と関係を持った村上氏の関心は、中原中也、そしてその交友関係へと及んでいったわけだ。

 ひとつの調査が新しい人間関係を生み、そこから更に問題意識が広がって次の研究が展開する、というのは楽しい作業だろうと思う。村上氏がそのような作業をしたおかげで、私たちは、中原中也という特異な人物に最も身近で関わった人たちのまとまった証言に接することが出来る。少ないながらも小林についての言及も貴重である。小林秀雄という人は、自分が「文士」であることの誇りを強く持っていたため、自分を「作品」を通してのみ人に見せ、私生活を暴露するような手紙や日記の類を人の目にさらすことを強く拒否した人だからである。

 私は、高校から大学にかけての一時期、中原や小林の作品にどうしようもない魅力を感じて耽読し、実は高村光太郎よりも前に、小林秀雄について考え、書いてみたいという願望を強く持っていた。しかし、彼らの現実があまりにも生々しく突飛でありすぎたのと、小林秀雄を相手にするのは時間的に膨大な作業でありすぎて、私はそれを現実化することが出来ないままになってしまった。まして中原の詩は、言葉によって論じることをまったく拒否する性質のものであった。久しぶりで手にした『私の上に降る雪は』と『ゆきてかへらぬ』を前に、そんな昔のことを思い出しては、心が波立つのを感じてしまった。