「伝説」や「奇跡」は今後も生まれるか?



 昨日の新聞各紙に、元灘校国語教師・橋本武氏の訃報が載った。101歳の大往生である。

 私もかつて取り上げたことがある(→こちら )が、氏が退職してから30年以上経ってから、卒業生が著書で話題にし、NHKが番組を作り、そして伊藤氏貴氏が『奇跡の教室』(小学館、2010年)にまとめることで一躍有名になった彼の現役時代の授業とは、中勘助の『銀の匙』という薄い文庫本を3年間かけて読む、という実践であった。また、94歳で『源氏物語』の現代語訳を完成させたことも、世間を驚かせるニュースだった。

 伊藤氏の著書のタイトルが『奇跡の教室』、サブタイトルが『伝説の灘校国語教師・橋本武の流儀』とあることに代表されるように、この人については「伝説」や「奇跡」という言葉が頻繁に用いられる。それは、一般の人の耳目を少しでも引き付けようという商業主義によるだろう。あまり真に受けるのは考えものだ。だが、今日は批判をするのではなく、それをきっかけにして少しだけ思うところを書いておこう。

 周知の通り、現在の学校というのは「学習指導要領」に強く拘束されている。教えるべきことは決まっており、授業では必ず天下の『文部科学省検定済み教科書』を使わなければならない。もちろん、少なくとも宮城県の公立高校の場合、予備校のように全ての授業がカメラによってモニターされたりはしていないし、試験問題だって、よほど目を付けられない限り、管理職がいちいちチェックしていたりはしない。だから、教科書外のテキスト、いわゆる「投げ込み教材」というものを授業に勝手に持ち込んで教えたからといって、容易に発覚したりはしないし、程度にもよるが、発覚したからといって厳しい指導がある、とも限らない。この辺は、今の学校でもまだ少しのんびりしている。

 だが、何かのきっかけで表立った問題になれば、その授業が、どんなに真摯な教育者としての良心に基づき、質の高いものだったとしても、規則違反として指導、更には処分の対象にもなり得る。そのことは覚悟していなければならない。まして、3年間というスケールで、教科書を逸脱することは相当な危険を伴う。

 また、教材が準備されておらず、自らその準備をするというのは、非常に大きなエネルギーが必要であるが、今の学校は、教科指導とは関係の無い雑事によって多忙を極めている。考査の実施が必須とされ、点数を客観的かつ公平に付けることが大きな問題でもある。最近は、平常点と考査点の割合とか、平常点の内容とかについても、「説明責任」を理由として、事前の計画と公開が求められるようになっている。準備が周到であることは悪いことではないが、その動機がトラブルを避けることであり、管理であるとしたら具合が悪い。ますます「学習指導要領」からの逸脱は難しい。と考えてきた時、少なくとも私にとって身近な公立高校の場合、「伝説」や「奇跡」が生まれる基盤はない、と思う。灘のような、一部の私立には今でもあるのかな?

 もっとも、作曲やかつての日本の造園の世界がそうであったように、規則にグチをこぼし、それによって独自性のある仕事ができないのは三流の人間である。一流は、どんなに煩瑣な規則の中ででも、それを守りながら、しかも自由にのびのびと一流の仕事をする。橋本武級の人は今でもどこかにいて、「伝説」や「奇跡」を生み出しているのかも知れない。しかし、やっぱり違うな、とも思う。同時に、行政も世間も、そんなことを期待してもいない。大切なのは、目の前の利益(点数)なのである。

 訃報に接して、私が寂しさを感じたのは、橋本武氏が亡くなったということともに、こんなことである。合掌