仙台フィル第277回定期と諏訪部百合さんの訃報



 昨晩は、仙台フィルの第277回定期演奏会に行った。曲は、ドヴォルザークの「スターバト・マーテル(悲しみの聖母)」である。オーケストラこそ仙台フィルだが、指揮はレオシュ・スワロフスキー、合唱はスロヴァキア・フィルハーモニー合唱団、4人の独唱者も全てスロヴァキア人という、ドヴォルザークを演奏するにはこれ以上はないというような土着の豪華メンバーで、私にとっては今年最大の音楽イベントであった。

 会場でプログラムを受け取ると、紙が一枚挟んであった。驚いたことに、仙台フィルの美人コントラバス奏者・諏訪部百合さんの訃報である。享年なんと45歳、病気療養中であったとだけ書いてある。「ゲーダイ(東京芸術大学)」でも「キリトモ(桐朋学園大学)」でもない、まったく無名の短大に入ったが、在学中、弱冠19歳の時に仙台フィルのオーディションに合格した才女だという話を、どこかで聞いたことがあった。

 当初予定されていた藤沢智子氏によるプレトークが中止となり、諏訪部さんの逝去に関する楽団からの報告に続き、ステージには、この日出番の無い人も含めた仙台フィルの全メンバー(←おそらく)が揃い、彼らだけによる(指揮者なし)献奏(バッハ「アリア」)と黙祷が行われた。客席も含めて、とても厳粛な雰囲気であった。

 この日の演目が「スターバト・マーテル」だというのは、偶然とはいえ、よくできた話である。これが来月の定期演奏会だったら、「みんなスペイン大好き!」というテーマで、シャブリエの狂詩曲「スペイン」やラヴェルの「ボレロ」を演奏することになるわけだから、いったいどんな顔をして演奏したらよいか分からない、ということになっていたであろう。

 ドヴォルザークの声楽曲(「レクイエム」)については、今年の3月9日に少し書いた。この演奏会があったから、好きでもないドヴォルザークをわざわざ聴いてみて、その実力と価値とに目覚めた、というような話である。以後、入手したクーベリック指揮によるCDで、ずいぶん繰り返しこの曲を聴いた。作曲に着手する直前に長女を失ったドヴォルザークは、完成までに更に二人の子供を失った。悲痛な体験は、意識しなくても、間違いなく作品に影響を与えているだろうが、そんなことを知らなくても大変な名曲であると思う。

 第1曲の冒頭は裸の楽器が、静かにオクターブで音を重ねていくという、なかなか難しそうな場面である。音は非常に不安定。仙台フィルに限らず、いや、音楽家に限らず、立ち上がりというのはなかなか調子がよくないものだが、昨晩の仙台フィルも、本調子になるまでには相当な時間がかかった。これは、合唱団も同様であった。本調子になったのは、おそらく第2曲の途中か、第3曲になってからであろう。しかし、ここから先は本当に素晴らしかった。曲という自分たちの外部にあるものを「演奏」しているのではなく、自分たちの内部にある音楽をそのまま外へ向かって吐き出しているような、自然で濃密な音の世界があった。目が悪いことも幸いして、私には、オーケストラもスロヴァキア・フィルであると感じられていた。

 「スターバト・マーテル」は、我が子イエスを失ったマリアが、その死を嘆いて十字架の下で涙を流す場面を描く。ミサ曲やレクイエムと同様、一つの定型詩として多くの作曲家が同じ歌詞で曲を作っている。全部で10に分かれる場面のうち、最終場面だけが「肉体は死して朽ち果てるとも、魂は天国の栄光に浴すことを得さしめたまえ。アーメン」と、ある種の明るさというか、救いのようなものを含む。

 だが、ドヴォルザークの「スターバト・マーテル」は、第3曲までこそ非常に沈鬱であるが、その後は、悲しみに沈むと言うよりも、祈りと、悲しみを乗り越えようという意志を感じさせる音楽となり、最終の第10曲は、壮大で前向きな「讃歌」のようになっている。この構造は、演奏の質とは関係しない。しかし、ドヴォルザークにとって、我が子を失った悲しみの中でこのような音楽が生まれてきたとおり、昨晩の仙台フィルにとって、これほど感情的にしっくりとくる音楽もなかったのではないか。

 気の毒なことに、たった800席しかない小さなホールで、なぜか客席は6割ほどしか埋まっていなかった。やはり、一般に馴染みのない曲をプログラムにすると、人は入らないということなのかな?私などは2日間続けて聴きに行きたいと思ったほどなのに・・・。