ヨバンナ・ブロズ氏の小さな訃報



 今日、『毎日新聞』の国際面に、小さな小さな訃報を見つけた。一般紙の中で載せたのは、多分『毎日』だけだった。ヨバンナ・ブロズ氏のものである。私の知らない名前だったが、括弧書きで「旧ユーゴスラビアの故チトー大統領の妻」とあったので、目に止まったのである。記事は、88歳で心不全のためベオグラードの病院で死去したことを伝えた上で、以下のように続ける。

「チトー氏の外遊に付き添うなど旧ユーゴで最も力のある女性といわれたが、70年代にチトー氏との仲が冷え込み、80年のチトー氏死去後、財産を没収され、移住先で貧しい軟禁生活を送っていた。」

 私が海外をウロウロしていた1980年代の半ば、ハンガリーブダペストから、夜行列車でユーゴスラビアベオグラードに行ったことがある。チトーが死んだのが1980年だから、まだ余韻の消えていない時期であった。当時、東欧諸国の中で日本人がビザを取らずに入れる唯一の国がユーゴで、確か、国際列車の切符を(国境までではなく)目的地まで、両替証明書無しに通しで買えるのも、ハンガリーとユーゴだけだったのではなかったかと記憶する。この東欧離れした規制の緩さ、自由の雰囲気は、チトーという偉大な指導者(大統領)がいたからだという話をどこかで聞いた。当時私はまったくただのノンポリ学生だったのだが、ならばと思って、ベオグラードの駅から真っ先に、歩いてチトー博物館に詣でた。何が書いてあるのか、説明がよく分からない展示物も多かったが、単に大統領として権力を持っていたから、というだけではない、チトーに対する人々の思いがあることを感じた。

 帰国後、加藤雅彦ユーゴスラヴィア』(中公新書、1980年)やZ・シタウブリンゲル『チトー・独自の道〜スターリン主義との戦い』(岡崎慶興訳、サイマル出版会、1980年?)といった書物に接して、これがなかなかとてつもない大人物であることを知るようになる。確かに、ユーゴが、他の東欧諸国に比べて規制が緩やかで、自由があったのは、この人が体を張ってソ連に対して毅然とした態度を取ったからなのだ、と思う。いくら国境を接していないとはいっても、スターリンに対して「No」を言うのは、当時にあっては想像を絶する困難を伴ったはずである。よほど強い信念と意志と不利益を引き受ける覚悟とを持っていなければできない。以後、私は、真に偉大な政治家の一人として、チトーに敬意を抱くようになった。

 さて、私は、チトー夫人がヨバンナ・ブロズという人であることを知らなかったが、今改めてパラパラとページをめくってみると、シタウブリンゲルの著書には、何度か夫人が登場する。しかし、あくまでもチトーに付き添う存在としてだけであって、夫人が主体的に何かをするわけではない。ただ、国民のみならず、ソ連の横暴(覇権主義)を快く思わない多くの国の人々から絶大な支持を集めていたチトーの夫人として、華やかな舞台に立つことが多かったのも当然だろう。

 それにしても記事に描かれた彼女の晩年は寂しい。詳しい事情は分からないが、政治抗争に敗れたわけでもなく、単なる夫婦の不仲だったとしたら、国家による財産没収→軟禁という処分は厳しい。88歳とあるので、1892年生まれのチトーより33歳も若い。チトーが死んだ時は、まだ55歳である。その後の33年間、彼女は「貧しい軟禁生活」の中で、何を思っていたのだろう。その間に、旧ユーゴスラビアは分裂し、ベオグラードセルビア・モンテネグロの所属となった。もはや、チトーも歴史上の人物の一人に過ぎなくなっているかも知れない。

 チトーという名前の大きさと、夫人の訃報記事のあまりの小ささとによって、妙に心引き付けられ、いろいろな空想と思いとが広がっていくのであった。