100年前と同じ、というだけ・・・日展問題



「芸術界に瀰漫する卑屈な事大主義や、けち臭い派閥主義にうんざりした。芸術界の関心事はただ栄誉と金権の事とばかりで、芸術そのものを馬鹿正直に考えている者は、むしろ下積みの者の中にたまに居るに過ぎないように見えた。日本芸術の代表者のような顔をしていた文展の如きも浅薄卑俗な表面技術の勧工場にしか見えなかった。冠をした猿どもがそこで自派伸張の争いでひしめき合っているように感じた。(中略)何しろ子どもの頃から父の傍らで育ち、多くの弟子たちの間に立ちまじっていたので、芸術界の内輪の情実、作家勢力の均衡、文展授賞の争奪、銅像其他の製作請負の運動、他派排撃の感情などというイヤな面を巨細に知って居り、それらのことが今や反吐の出るほど愚劣に見えてくると、そういう逐鹿場へ足を入れる気がまったく無くなってしまった。(中略)汽車の中で話のあった銅像会社はおろか、文展へは出品せず、勢力家を訪問せず、いわゆるパトロンを求めず、道具屋の世話を拒絶し、父の息のかかった所へは一切関係せず、すすめられた美校教授の職は引き受けず、何から何まで父の意志に反する行動を取るようになり、父の方から見れば、何の為に外国へまでやって勉強させたのか、わけの分からない仕儀になってしまった。」(「父との関係」、1954年)

 これは、高村光太郎が父の死後20年を経て書いた文章である。この文章を私が思い出したのは、もちろん、最近「日展」で審査の不正が明らかになり、しかもそこには金や派閥(会派)が重要な役割を果たしていたことが明らかになったからである。現在の「日展」というのは、上の文中に出てくるかつての「文展」であり、光太郎が留学から戻ってその在り方に憤っていたのは、1910年頃の話なので、途中は知らないし、あくまでも光太郎の見方によればだが、芸術界の体質はこの100年間なんら変わっていないことになる。あまり意外な感じはしない。今回不正が明らかになったのは「書」に関する分野だけだが、他の分野だって同様のことはあるのではないか?

 光太郎の父とは、東京美術学校彫刻科教授、帝室技芸員従三位勲二等・高村光雲である。光雲は、もともとただの「仏師屋」「木彫り職人」で、しかも廃仏毀釈運動の中で困窮を極めていたが、その困窮の中で他の職人が廃業してしまったおかげもあって、美術学校の創設に当たって見出され、にわかに「芸術家」として脚光を浴びると、あとはほとんどアメリカンドリームのように出世を遂げることになる。当時は、富国強兵、殖産興業政策が採られ、それを支えるものとしての「立身出世主義」が、国家の教育方針として国民の価値観を一本化していた時代である。芸術の世界においても、少しでも栄達の階段を上りたいという者がたくさん現れるのは、何ら不思議なことではない。そしてそのために、強い者にへつらい、金品を貢ぎ、他者の足を引っ張ることも・・・。

 だが、今回の日展事件は、金と権力(勢力)への渇望が、国家の教育方針とは関係なく、普遍的、根源的に、人の心の中にあることを物語っている。

 私が以前からよく言うことだが、「真偽と損得は矛盾する」はやはりこの場面においても正しい。光太郎は、芸術を真剣に考えている者は、組織の末端に時折見られる程度だ、と言う。偶然、彼らが組織の末端に居るわけではない。本物の芸術は独創的であり、独創的であるものを人は理解できない。純粋ひたむきな人間が、世渡り上手になれないのも当然だ。従って、本物は主流にはなれないのである。組織の上位に就きたければ、自分が本当に表現したいことは何かと考えるのではなく、評価者(師匠や審査員)がどのようなものを好むか、と考えないわけには行かない。

 もっとも、100年であろうが、300年であろうが、歴史を勉強していると、人間の不変性を感じる場面というのは非常に多いわけだから、日展の審査で不正が行われたこと自体よりも、そのことに驚く方が驚きに値するかも知れない。まわりの人間が、「日展入選」という実績を特別視せず、「日展入選」とは無関係に、自らの審美眼に従って作品の価値を評価すれば、「日展入選」をありがたがり、金品を贈ってでもその称号を手に入れたがる人もやがていなくなる。だが、そうはならないから、いまだに「日展入選」が価値を持つ。だとすれば、これは社会全体が権威主義的であることの表れであって、日展で賞を貪る「芸術家」だけを責めても始まらない。