ある先生の思い出



 11月も半ばになると、1日おきくらいで「喪中葉書」というのが届くようになる。親が亡くなったというのがほとんどである。大抵の場合、その亡くなった方に私は面識が無いのだが、それでも、いくばくかの感慨は抱くものである。

 今日も1通届いた。しかも、私の中学校時代の恩師という面識ある方の訃報であった。このような方の場合、普通は、私が訃報を知らずに年賀状を出し、ご家族の方から亡くなった旨の通知をいただくものだと思う。それが、奥様から事前に「喪中葉書」をいただいたわけだし、ご指導を受けた期間はさほど長くなかったものの、いろいろと思い出があるので、その葉書を前にしばしの感慨に浸った。

 私は中学2年の夏に転校している。先生にお世話になったのは転校前、宮城県の名取第一中学校にいた時である。当時、私は柄にもなくサッカー部に所属していて、先生はその顧問であった。ご自身にもサッカーの経験はあるようだったが、「部活命」の熱血教師ではなく、それでもよく面倒は見て下さっていた。社会科の先生だということは知っていたが、多分、先生の授業を受けたことはないと思う。

 当時40代の半ばくらいだっただろうか。やせて頬がげっそりとこけ、目が落ちくぼんでいるので、生徒から陰で「骸骨」とか「黄金バット」とか呼ばれていた(ちなみに、先生がやせているのは、胃潰瘍で胃を全摘したからだというのは、手術の傷跡を見せられながら先生から直接聞いたことがある)。笑顔を見せることも多くはなく、いささか厳めしい雰囲気を帯びていたので、お世辞にも人気のある先生ではなかった。

 私は、信じられないほど可愛がってもらった。「この学校の生徒の中で、今から一番伸びるのはおまえなのだ」みたいなことをよく言われた。私に対してだけそんなことを言っていたという保証はないし、そうして可愛がってくれたからというわけでもないと思うが、私には、友人たちが言うほど親しみにくい、変な先生には見えなかった。まれに先生が笑う時、落ちくぼんだ目が、なんとも優しそうに光るのを魅力的だと思っていた。

 ある時、何かの折りに、他の先生から、その先生が、その中学校で唯一の修士号を持つ先生であり、しかも弁護士の資格を持つ極めて珍しい中学校の先生なのだ、という話を聞いた。修士号が何かはよく分からなかったが、弁護士の資格を持つというのが、中学校の教員としては場違いなすごいことだというのは、当時の私にも少しは感じられた。今でこそ修士号を持つ教員は珍しくないが、法曹資格を持つ教員というのは、後にも先にも、小学校から高校まで含めても、私はこの先生以外会ったことも聞いたこともない。

 私が転校する時は、すいぶん惜しんで下さったし、東北大学に入学して仙台に戻った時には喜んで下さった。そしてそれから何年もしないうちに、先生は突然、退職されてしまった。まだ、せいぜい50代の半ばであったと思う。

 一度だけ、仙台市内にある先生の自宅に伺ったことがある。1988年春のことだったと記憶している。私は先生に退職の理由を伺った。先生は二つの理由を語った。ひとつは、生徒の相手をするのとは関係の無いようなくだらない仕事ばかりが増えること、もうひとつは、同僚の多くが管理職を目指して上の者に媚びへつらったり、見かけ倒しの教育をする姿を見るに堪えられなくなったこと、とのことだった。この時初めて、私は先生が法曹資格を持つと聞いたことがあることに触れ、個人で弁護士をしたりはしないのですか?と尋ねてみた。先生は、資格を得てから何十年も経つので、もう今更そんな世界に戻ることはできない、自分は決して弁護士をしようと思って退職したのではない、今の自分にはこれが無上の楽しみなのだ、と言って、すぐ近くのふすまをさっと開けた。

 ふすまの向こうの部屋には、新聞紙が敷かれ、彫りかけの版木とたくさんの彫刻刀があり、新聞紙の上には大量の木くずが落ちていた。思えば、中学校時代以来、私は欠かさず先生に年賀状を差し上げていたが、先生からの返信は決まって版画だった。私はそれを見ながら、単なる年賀状用の趣味若しくは余技だと思っていたのだが、先生は版画に対し、退職後の時間の多くを費やすほどに深い愛着を持っておられたのだ。

 法曹資格を持ちながらなぜ中学校の教員などになったかについては、言葉がのど元まで出ながら、どうしても尋ねることができなかった。あまりにも特殊なことでありすぎて、先生の触れてはいけない過去に触れるような気がしたからだ。 

それから数年を経た頃、先生の年賀状から版画が消えた。相変わらず年賀状は下さるが、ひどく愛想の無い印刷された年賀状で、先生ご自身の言葉も書かれていなかった。あれほど版画に愛着を持っておられた先生が、それからわずか数年で版画を止めてしまったのを私はいぶかしく思いつつ、先生の心境の変化を表すと思い、だんだん人間的なつながりも薄れてしまったような気がして、ある年、ついに年賀状を出すのを止めることにした。ところが、この年も、先生からの年賀状は届いた。私は、生徒であった私の側から進んで欠礼したことを恥じて、再び年賀状を出すようになった。だが、やはり版画は二度と見ることが出来なかった。

 今日届いた喪中葉書には、「病気療養の末」とのみ書かれている。亡くなったのが3月20日だったとはあるが、年齢も書かれていない(80代半ばか?)。いつから療養していたのかは分からない。だが、宛名書きを見て、近年、私が先生の字と信じていたのが、実は奥様の字であることを知った。この期に及んで初めて、私は、版画の年賀状が来なくなったのは、心境の変化ではなく、実は健康上の問題だったのではないか、と思った。そして、電話を差し上げることも、お見舞いに伺うこともなく、20年近い年月を過ごしてしまったことを激しく悔いた。

 法曹資格を持ちながら、地方の中学校教員となり、出世とは無縁で、むしろそのようなことを嫌悪していたからこそ早く退職した。ひっそりと自宅で版画を作り続けたが、それによって名を成そうという気もなく、おそらくは長い闘病生活の末に他界された。この先生のことを知る人、憶えている人は、ほとんど世にいないかも知れない。だが、先生が生涯において積み重ねられた思索と、その中にあるドラマとは尋常なものではないような気がする。私は、このような方に可愛がっていただいたことを誇りにも思うし、そんな意識が私を支えた時期があったかも知れない、と思う。先生が期待して下さったほどには伸びなかったであろうことに忸怩たる思いを抱きつつ、大きな感謝とともにご冥福をお祈りしたい。 なお、この先生の名前は、岩隈国朗(いわくま くにあき)という。合掌