ネルソン・マンデラとアパルトヘイト



(12月13日付け学級通信より)


 12月5日にネルソン・マンデラ南アフリカ大統領が死んだ(95歳)。10日に行われた追悼式典には、世界各国の要人を始め、数万人の人が集まったという。

 南アフリカでは、かつて「アパルトヘイト」という悪名高き人種隔離政策が行われていた。白人と非白人を厳密に区別することが、法律で決められていたのだ。マンデラという人(非白人)は、その法律を廃止させようと立ち上がり、27年に及ぶ獄中生活の後、ついに1994年、その法律の廃止に成功し、非白人として初めての大統領に就任した。ひとつの法律を廃止することを「だけ」ということはできない。なぜなら、この法律を緩めれば、白人が強く反発すると同時に、非白人が白人に対して復讐の鬼となり、国内が大混乱に陥る可能性は高かったからだ。それらの解決も含めての、アパルトヘイトの廃止である。

 また、獄中に27年間と一言で言うが、やがてアパルトヘイトの廃止に成功したという結果が見えている私たちにとっては、そのための27年間だが、先がどうなるか分からない状態で過ごす27年というのは、気が遠くなるほどの長い時間だ。私が見たところ、古来、革命家には楽天的な人が多い。どんなに厳しい状況下でも夢と希望を持ち続けられる人でなければ、世の中を変えることはできない、ということなのだろう。

 民主主義の基本は、よく言われるとおり、自由と平等である。民主主義国家で何かが行われる時、常に意識していなければならないのは、それが自由と平等を積極的に実現させられることかどうか、それらを犯すことにならないかどうか、だ。マンデラという人が目指し、実現させたことも、それらである。

(余談)

 1984年の1月、私はイスラエル北部のキブツ(集団農場)で、「ボランティア」という形でアルバイトをしていた。その時、私が住んでいた宿舎に、4人の南アフリカ人の女の子がいた。4人とも白人だったが、明るくまじめな可愛い女の子たちだった。彼女たちが南アフリカ人であることを初めて知った時、アパルトヘイト南アフリカに関する知識の全てだった私は、思わず「ああ、あのアパルトヘイトで有名な・・・」と言ってしまった。彼女たちは、なんとも複雑な表情を浮かべた。直後、私は失言だった!と思った。彼女たちは、怒るわけでもごまかすわけでもなく、その後も仲良くしてくれた。しかし、この時の彼女たちの当惑の表情を思い出す度に、私は、白人も、多くは決してアパルトヘイトを快く思っていなかったのではないか、と思う。

 中東を旅行していると、アフリカから来た旅行者によく出会った。シリアのアレッポで同じ宿に泊まり合わせた日本人旅行者から、アフリカ旅行の話を聞いていた時、話が南アフリカに及んだ。アパルトヘイトの現場を歩いてきた人の話は面白かった。この時私は、南アフリカで日本人が、その経済関係の強固さによって「名誉白人(非白人ではあるが、白人と同じ場所を利用し、白人と同じように振る舞ってよい)」という扱いを受けていることを知った。しかし、日本人と中国人、韓国人とは見分けが付かないので、白人の施設(公衆トイレなど)を利用していると胡散臭い目で見られ、普通は日本人だと察してくれるが、決して居心地のいいものではなかった、と言っていた。

 私も、アパルトヘイトのような人種差別は、民主主義以前に、近代国家として許されないと思っている。だが、正直な話、一度そんな生々しい世界史の一場面を目撃してみたかった、という気持ちはいまだに心の中に尾を引いている。


(その他の記事省略)


(裏面:12月8日付け『朝日新聞』より、「自転車 止まらない「加害」事故」を引用。

平居コメント:注意一秒、ケガ一生。そして、借金も責任も一生)