「百人一首」狂騒曲



(2月7日付け学級通信より・・・その1)


 親からゲーム機を買ってもらえない「かわいそう」な子どもたち(=もちろん我が家の話。ブログ読者で知らない人は、昨年12月20日記事参照→こちら)は、遊ぶ物を求めて家の中を物色した結果、「百人一首」というカルタを発見し、現在、狂ったようにそればかりやっている。「これ何?」と尋ねられた時、年齢相応と思って、「坊主めくり」を教えたのだが、「実力」は無関係、100%「運」任せの遊びにはすぐ飽きた。仕方が無いので、「百人一首」の本来の使い方を教えてやると、何しろ取り札が平仮名だけで書いてあるものだから、下の句まで読んでやりさえすれば、5才の息子にも取れるぞ、という話になって、我が家の「百人一首」大会が始まった。意味は全然分かっていないが、そんなことは問題にならない。「平安・室町の短歌?×?」などと言って食わず嫌いさえしなければ、「百人一首」もただのカルタである。

 恐ろしいことに、我が家の子どもたちは猛烈な勢いで歌を覚え、もはや大抵の札は上の句だけで取れる。妻は、家庭教育の成果で、何ら仕事や大学の専門とも関係ないのに、全ての歌を知っていて、圧倒的に強い。というわけで、今や家の中で最も弱いのは私だ。弟に負けた娘が、「自信を付けたいからパパとやりたい」と言い出す始末である。情けないことこの上ない。

 「百人一首」は、高校時代に40か50くらいは覚えたはずだが、次に「百人一首」とまじめに向き合い、覚えようとしたのは、授業との関係で必要性が生じた30才過ぎのことである。この、後から覚えた歌というのがさっぱり思い出せない(頭に定着していない)。歌によっては、聞いたことさえない(←もちろん、あり得ない)気がする。改めて覚えようと思っても、覚えられない。やはり、ものを覚えるのは若いうちに限る、若いうちにできるだけ多くのことを覚えておいた方がよい、とつくづく思う。自分が中学か高校の頃、今の私と同じくらいの歳の先生が、そんなことをよく言っていたと寂しく回想する。

(ブログ用のオマケ)

 上に書いたとおり、子どもたちは歌の意味など一切考えていない。しかし、意味が分からなくても、音で言葉を手当たり次第覚えておくことには意味がある。言葉は身体的なものであり、音で覚えることが正しい言語感覚を身に付けることに結び付く、と思うからだ。昔の中国や日本で、意味も分からず先生の後に付いて漢文を読む「素読」という学習法が初学者にとられたのは、決して故無きことではないだろう。

 だが、「百人一首」で勝つためには、「決まり字」と言われる字から、下の句へスキップできることが大切である。「決まり字」というのは、その音が出た瞬間に下の句が何か判別できる字である。例えば、「む」から始まる歌は一首しかないので、読み手が「む」と言った瞬間に「きりたちのぼるあきのゆふぐれ」という札を探す。この場合、「む」を「決まり字」と言う。取り手の頭の中にこの歌は、「む→きりたちのぼるあきのゆふぐれ」と記憶されていれば用が足りる。いや、下の句にも同じような性質があり、大抵は、最初の数文字さえ覚えていれば十分なので、「む→きり」で十分だということになる。「決まり字」は、最も後ろにある歌でも6字目である。だから、31音の短歌のうち、合計10音覚えていれば、全ての札は取れてしまう。

 見ていると、教えたつもりもないのに、子どもたちは自らそのような覚え方をしているようだ。「あまの→みかさ」「ひさ→しづこころ」「よのなかよ→やまの」・・・短歌は、もはや短歌の体を為していない。

 「素読」に肯定的な私も、こうなると???である。彼らの頭の中では、「むらさめのつゆもまだひぬまきのはにきりたちのぼるあきのゆふぐれ」は、永久に「む・きり」であって、「村雨の露もまだ干ぬ槙の葉に、霧立ち上る秋の夕暮れ」にはならないのではないか?人間というのは、知らなかったことを覚えるのは比較的容易だが、間違って覚えてしまったことを修正するのは難しい、という性質を持つ。彼らにこのような、いわば間違った覚え方を積極的にさせていいのだろうか?こうして短歌に親しんだことをきっかけにして興味を持ち、歌の全体を覚え、意味を理解するという方向へ進むのだろうか?

 なんだか少し複雑な気分で、激しい我が家の「百人一首」大会を見ている私である。