ブルックナー指揮者・小泉和裕



 仙台フィルの第280回定期演奏会に行った。昨年2月に続き、今年も小泉和裕氏がブルックナー、しかも、あまり演奏される機会のない交響曲第1番(リンツ稿)を演奏するというので行ったのである。

 小泉和裕という指揮者については、昨年こんなことを書いた。高校時代以来、何回となくこの人の演奏に接する機会はあったが、感動できた記憶が無い、しかし、この日のブルックナー交響曲第2番は本当にすごかった、見直した、というようなことである(→こちら)。今年は大きな期待と、昨年がまぐれという半信半疑で出掛けて行った。

 今日、第1番の演奏を聴いて、やっぱり素晴らしい演奏だった。第1番という曲の価値自体も見直しを迫られるほどであった。ブルックナーに先立って演奏されたのは、F・リストの「メフィストワルツ第1番」、M・ブルッフの「スコットランド幻想曲」(Vn独奏:郷古廉)であった。冒頭なので仕方がないとは言え、リストは得体が知れず、ブルッフは半分居眠りをしていた。ところが、ブルックナーになった瞬間、目が覚めたのである。また、昨年書いたとおり、ブルックナー交響曲が本当にブルックナーらしくなるのは、世間の評価によれば第3番から、私はそれを第2番からにしてもいい、と思っている。ところが、今日の演奏などを聴いていると、第1番の時点で、ブルックナーはまさしくブルックナーなのだ、と思わされる。おそらく、小泉和裕という指揮者は、ブルックナーを演奏した時に、特殊な力量を発揮するタイプの人らしい。

 ブルックナーには、他の作曲家が「独特だ」と言うのとは違う次元で「独特さ」がある。「ブルックナー開始」「ブルックナー休止」など、「ブルックナー何とか」という言い回しが数多く生まれているのは、その「独特さ」あればこそである。そんな言葉の中に、「ブルックナー指揮者」とか「ブルックナー・オーケストラ」という言葉がある。いくらベートーベンが得意でも、「ベートーベン指揮者」という言葉は聞いたことがない。「モーツァルト指揮者」も「シューマン指揮者」もないと思う。何が違って「ブルックナー指揮者」になるのかは分からない。だが、それは間違いなく存在する。

 「ブルックナー指揮者」として有名なのは、日本では朝比奈隆が文句なしに筆頭(多分他にはいない)、海外ではS・スクロバチェフスキー、G・ヴァント、S・チェリビダッケといったあたりがすぐに思い浮かぶ。古くはH・クナッパーツブッシュだ。これらの中で、今でも生きているのはスクロバチェフスキーだけである。

 私は小泉和裕氏に「ブルックナー指揮者」の称号を差し上げたいと思う。そして、氏が仙台フィルを「ブルックナー・オーケストラ」に育ててくれることを期待する。フランス人の常任指揮者で、色彩的な音楽を目指すよりも、東北には「野人・ブルックナー」がよく似合う。