王陽明『朱子晩年定論』のことなど・・・私の学問史(9)



    (三)

 前に引用した徐愛の『伝習録序』に見られたように、言葉を薬としてのみ考え、それ故ひとつの表現に立ち止まることを極度に警戒した陽明は、当然のこと、自分の言葉を後世に遺すことには極めて否定的であった。

 嘉靖6年(1527年)4月、門人・鄒東廓が陽明の著述をまとめて上梓することを申し出た際、陽明は、言葉はむしろ実践・体得の邪魔になるとして拒否している。しかし、東廓の度重なる求めにより、陽明もついには刊行を許すのだが、許可するに当たって陽明は、大悟した後の文章(原文:近稿)の3分の1ほどについて、それを書いた年月を記した上で銭緒山に編集を命じ、更に、詩、書簡といった著述の種類ごとに分けることなく、書かれた順番に収録せよと指示した。文の種類を分けないのは、「学問を講じ聖人になるための道を明らかにする」ことを目的として書かれたという点において、どの種類の文も同一線上にあるからであり、書かれた順序にこだわるのは、それによって人々に、自分の学が年月とともに変化していることを知らしめるためである、と言う。

 後者は一見不可解である。なぜなら、龍場で大悟して後、陽明の思想が全く変化しなかったことは、陽明自身も、彼の門人も、そして現今の研究者もが認める疑うべくもない定論である。龍場以降変化したものがあるとすれば、それは教説である。だが、陽明の言葉に対する意識を考えると、教説についても、その変遷の足跡をたどることそれ自体を殊更に重視したとは考えられない。だとすれば、陽明が弟子たちに見よと言う「自分の学が年月とともに変化していること」とは一体何なのか。

 話を冒頭に戻すことになるが、陽明の目標はあくまで「聖人となること」であり、そのための方法論が陽明の思想の根幹であった。彼の方法論は、最も簡潔にして十分な言い方をすれば、「良知を致す(先天的に心に備わった絶対善の判断主体を生かす)」ということである。しかし、「良知を致す」という行為はない。良知は常に何かの行為に即して「致さ」れるのである。

 私たちの目に映る陽明は、政治家であり教育者である。その陽明にとって「学ぶ」ということは、より一層緻密な政治論や教育論を語ることでは決してない。その極めて単純な思想を、政治や教育の場において、間断なく実践できるように努力することだったのである。

 『定論』の中で、朱子の言葉を通して人々に伝えたかったことと、『礼記纂言序』で伝えたかったことは同じである。違っていたのは緻密さである。自分の思想を妥協なく語り、かつ、自分の思想が朱子の思想と一見不整合であることが、直ちに朱子に背くことを意味しないと述べたこと同一でありながら、構成の周到さ緻密さにおいて、二つの編著は百歩を隔てるものと言える。この隔たりが、陽明の思想実践の完成度の違いであり、彼が人に見よというところの「自分の学が年月とともに変化していること」である。更に読者は、この二編の間に横たわる5年という歳月の中に、自己の思想実践の完成を目指して呻吟を続けた陽明の姿を見なければならない。

 王陽明の思想は、非常に単純な姿をしている。「聖人になる」という巨大な目標に比べ、それは一見あまりにも容易に過ぎる。人々は不安を感じ、正しさを疑い、やがて行動を離れて文字レベルでの理解に走り、陽明の思想を見失ってゆく。文集の随所に見られる、学者を教導し、政治的問題を解決するに苦心する陽明の姿は、単純な思想でも、間断なくそして最大の緊張を以て実践することがいかに困難であるかを、十分明らかに表している、と私には思われる。 (つづく・・・ただし、「王陽明朱子晩年定論』のことなど」は完)