ウグイスの異変、または「水産高校での3年間」



 異変が起きている。我が家では、毎年決まって3月10日から12日の間にウグイスが鳴き始める。今日は3月20日。今年はまだ鳴き声を一度も耳にしない。既に1週間以上の遅れである。今年の冬が、例年と比べてどれほど寒かったのか知らないが、少々寒い日があったとしても、2ヶ月とか3ヶ月とかの平均で見れば、1度も違うなどということはほとんどあり得ない。ウグイスがどれほど気温の影響を受けるのかも知らないが、初鳴きが1週間以上遅れるというのは、非常に深刻な「何か」なのではないだろうか?

 それはともかく、本日発刊の『クレスコ』3月号(大月書店)という教育雑誌に、依頼を受けて書いた私の作文が載ったので公開しておく(版権者了解済み)。今まで私の文章を読んで下さっている方にとっては、目新しいことのない記事である(私が出した題は副題として採用され、題は編集者が付けた)。


 「海沿いの水産高校での3年間・・・被災校で見える人間の光と影

 私が勤務する宮城県水産高等学校は、名前から分かるとおり、海の近くに建つ。本校舎から海岸までは300m、栽培実習場と艇庫は海に隣接している。しかし、幸いにして、その海は外洋ではなく、万石浦という内海だ。そこで、津波は来たものの、本校舎で床上50cmという軽微な浸水に止まり、学校にいて死んだ人はいなかった。ところが、地盤沈下による冠水がひどく、校舎への出入りもままならなくなってしまったため、2ヶ月後に、10kmほど内陸の仮設校舎に移転した。市の冠水対策が奏功したとして、元の校舎に改修工事を施し、戻ることができたのは、震災から2年近く経った2012年12月末である。(本校の詳細については、震災時のことも含めて、拙著『それゆけ、水産高校!』(成山堂書店、2012年)を参照していただきたい)

 だが、それは、学校生活が震災前の状態に戻ったことを意味してはいない。震災直後、4割の生徒が避難所から通っていた状況は、大きく改善されたものの、現在でも仮設住宅や親戚宅から通っている生徒が2割近くいる。JRにはまだ不通区間が残っており、道路(特に歩道)の状況もよくない。学校についても、実習用大型原動機、缶詰生産ラインなど、機器の修理・交換が終わっておらず、使用を再開できていない設備がまだまだある。

 津波地盤沈下も自然の営為であり、仕方がなかったとあきらめが付く。だが、その後の人間の対応には、被災後の混乱というだけでは済まない問題が含まれている。

 仮設校舎時代の約2年のうち、少なくとも1年は、復旧工事のための時間ではなく、模様眺めの時間だった。目の前にいる生徒の修業年限が3年であることが変わらない以上、部分的にでも仮復旧させ、従来に近い勉強(特に実習)ができるようにさせてやりたいと考える現場の教員に対し、県は、いずれ復旧のために大金を投じるのであれば、それ以前には一切お金を使うべきではないと考えているようだった。

 現在、深刻なのは、他の場所でも話題になっている防潮堤の建設だ。本校の栽培実習場は、海に面して建っているにもかかわらず、本校の施設の中で最も外洋から遠い場所にあったことと角度の問題とから、まったく浸水がなかった。ところが、ここに大きな防潮堤が作られることになった。

 かつて、栽培実習場の前には小さな砂浜と、豊かな生物を育むアマモ場があった。生徒はそこで地引き網を引き、身近な海洋生物を採取して勉強していた。ここに、高さ3mもの防潮堤が作られることになり、しかも、他の場所に先駆けて建築が始まってしまったのである。昨夏、鋼鉄製の矢板が打ち込まれ、そこに砕石を投入して仮の護岸が出来上がり、砂浜もアマモ場もあっけなく消えてしまった。近い将来には、仮護岸の上に更に2mのコンクリート壁が作られ、船の乗り降りにもはしごが必要となる。防潮堤は、艇庫の前にも建設予定である。その時、建物を移転せずに済むのか、船のスムーズな出し入れが可能な構造にできるのか、工期はいつまでか、といったことは何も見えない。

 私が知る限りにおいて誰も必要性を感じていなかった防潮堤であり、事前に関係者への意見の聴取も行われなかった。私は、ここに震災後の様々な施策の本質が表れているように思う。ひとつは、大きな自然災害があったことで、何かをしていなければ落ち着かず、言い訳も立たない、という発想である。実質より気分、と言ってもよいだろう。そしてもうひとつは、災害対策ではなく、経済効果=土木工事(土建業者)の活性化が本当の目的ではないか、ということである。

 宮城県で移転を余儀なくされた高校は4校、全て専門高校である。うち、水産以外の3校は、現在もなお仮設校舎で授業を続けている。実習施設もかなり回復しているが、元の校地には戻ることができない学校も2校ある。それらは新校舎建設のための用地取得から始めなければならず、作業は途に就いたばかりである。一方で、震災によるダメージがほとんどなかった学校もたくさんある。被災地にも、震災などはるか昔のことだ、という人と、何もかもを失い、途方に暮れている人とがいる。ゼロか百か。学校にも同じ状況がある。

一方、幸いにして、復興需要により、求人数は大きく増えた。業種は限られているが、本校に関して言えば、被災地で求められている職種と生徒の求める職種が一致するため、全国的にも希少な水産高校として、もともと恵まれていた生徒の就職は、更にスムーズになっている。そして、何よりも嬉しいのは、生徒が震災前と同様に、屈託のない明るい学校生活を送っていることである。ケアを必要とする生徒もほとんど見られず、「逆境の中で健気に頑張っている」というのではない、自然な若者の姿である。」

(雑誌には、2009年と2013年の栽培実習場前の写真を比較参考用として載せた。ここでは省略。)