「学歴は変わるか」(1)



 3月30日付け『朝日新聞』に、「教育2014 学歴は変わるか」シリーズの第1回として、「これって、学歴フィルター?」という記事が載った。某大学の学生が、インターネットで採用説明会への参加申し込みをしたところ「満席」だったのに、他の大学の友人が申し込んだところ、後からだったにもかかわらず、「満席」ではなかった、学歴フィルターが設定してあったのではないか?という記事なのだが、読んだ時、私はひどく驚いた。なぜなら、大学名がすべてはっきりと書いてあったからである。私の感覚からすれば、少なくとも、「満席」を理由として断られた側の学生の所属大学名は出さない。こんなこと書いてしまって、いかにも学歴として低く扱われた側の大学や、その関係者から文句は来ないのかなぁ、と、人ごとながら心配してしまったのである。そうしたところ、4月11日に「教育2014 学歴は変わるか 反響編」という記事が出て、その記事に対する苦情が取り上げられていた。やっぱり、苦情はあったのである。

 日本が「学歴偏重社会」であるのかどうか、私は知らない。いわゆる進学校の高校生が、大学のブランド的な価値に異常にこだわる姿はさんざん見てきたが、それは一種のファッション(見栄)であって、では進学した大学の名前によってどれほどの実際的な利益や不利益があるのか、分かってこだわっていたとは思えない。企業ではなく、学校などという職場にいるからかも知れないが、私は「学歴」を意識させられる場面に出くわしたことがない。自分の学歴で、有利な扱いを受けたことも、不利な扱いを受けたこともないと思う。職場の人間を見ていても、仕事のできるできないと学歴が結び付くことはない。同僚がどこの大学を出たか知らずに、一緒に仕事をしている場合も少なくない。現在の宮城県の教育界の実質的なトップである教育長は、さほど偏差値の高くない地方私大の出身だし、自分が勤める水産高校の校長は、どこの大学を出ているのか知らない。

 一方、日本を代表する大企業の取締役から、「うちは○○大、△△大、□□大・・・からしか採らない。基礎学力のないやつはやっぱりダメだ」という話を直接聞いたことがある。『朝日新聞』も書いているとおり、企業が仮に「学歴」を目安として学生の採否を決めていたとしても、企業はそのことを公には認めないだろう。だから、「学歴」がどの程度重んじられているのかを明らかにすることは難しい。だが、厳しい競争にさらされている企業が、実力よりも形式(学歴)を大切にするとは思えない。では、「学歴」と「実力」には、どの程度の相関関係があるのだろうか?

 高校教員の立場で言わせてもらえば、例えば東大や京大に入るには、それなりの実力が必要である。しかし、早稲田に入るのが難しいかといえば、必ずしもそうではない(慶応は身近な例が少なすぎて、確かなことが言えない)。これは、東大、京大、早稲田といった名の知られたいわゆる「一流大学」だけではなく、その他の国立大学、私立大学についても似たようなことが言える。

 私立が入りやすいのは、「指定校推薦」という技があるからである。高校には、私立大学から、推薦があれば絶対に採りますよ、という枠が来ている。どこの高校にも同様に枠が与えられるのではなく、その大学への卒業生の進学実績、受験実績などによって決まっている。大抵は、調査書の平均評定による基準があり、推薦できる学部や生徒数も決められている。最近は、地方私大など、学生集めに汲々としているので、基準なしとか、人数枠もないに等しい(=無制限)大学もある。

 早稲田あたりの指定校枠がある高校だと、高校入学時からそれを狙い、評定値を上げるために定期考査だけ頑張る、先生から言われたことは素直に聞き、平常点も取りこぼしがない、という生徒がいる。もちろん、そのような生徒は、好奇心に基づいて学ぶとか、知識を蓄積していく、といった作業は「無駄」なのでしない。つまらない生徒だな、こんな打算的な精神で大学に行ってもろくな勉強はしないだろうに・・・と思っても、成績が基準を満たし、人数枠の範囲内であれば、高校は推薦しないわけにはいかない。

 それなりの実力がなければ入れない東大や京大のような学校でも、その「実力」が、ただ大学に入ることだけを目標として作られた場合もあれば、更に先の大きな目標に向けて、その前段階として作られた場合もあって、それらを同一に考えることもできない。つまり、東大・京大あたりに行く生徒についてだけは、ほぼ間違いなく「勉強がよくできるなぁ」という実感は持つことができるのは確かだが、「将来大物だ」という期待は持てる生徒も持てない生徒もいる、ということである。

 「意欲のある学生を求める」「目的意識の高い学生を採る」と言いながら、大学が入試制度をいじる度に、抜け道的に有名大学に入る生徒は増えたと思う。成績が悪くても、その学生は「意欲のある」「目的意識の高い」学生なのかも知れないが、大学が営業上の問題から相当にいい加減な生徒を採るようになり、公言できないので、「意欲のある学生を求める」「目的意識の高い学生を採る」という言い訳をしているだけのように感じることも少なくない。いずれにせよ、どこの大学に入ったかによって、その人間が評価されるなんてとんでもない、というのが、送り出す側の実感である。(続く)