マグロのつぶやき



 STAP細胞に関する『Nature』掲載論文の科学的正しさに疑念が持たれ、大きな騒ぎになっていることについて、9ヶ月間もかけて為されたと報道されている「査読」が一体何だったのか、理研はさんざん標的にされているのに、『Nature』の責任についての報道が私の知る限りで一切ないのはなぜか・・・といったことを、私は一度ならず書いた。

 そうしたところ、『水産経済新聞』に毎週火曜日に掲載されている「マグロのつぶやき(第132回)」というコラムで、昨日、面白い記事を見付けた。タイトルは「科学論文とは」、執筆者は「Dr・ミヤケ」となっている。

 それによれば、10年ほど前、マグロ延縄漁が行われ始めた1950年代に釣獲率が急速に下がったことを根拠として、マグロ(資源)は危機的状況にあるという論文が『Nature』に載ったそうである。ところが、執筆者は、この論文について、「とんでもない非科学的論文」であり、約2年前の「マグロのつぶやき(第28回)」に「大誤報の亡霊」というタイトルで詳しく書いた、としたきり、大学教育のあり方へと話を滑らせて行ってしまう。詳細は分からず、なんとも思わせぶりなのである。

 今日、職員室で、何しろここは水産高校なのだと思い、某先生に「第28回を読んでみたいんですけど、手に入れる方法ないですかねぇ」と尋ねてみたところ、1時間くらいで、某先生が、私の手元に水産経済新聞社からのファックスを届けてくれた。恐れ入った。

 さて、その記事によると、問題の論文が発表された直後から、「まともな世界中のマグロ学者たち」が一斉に論文の誤りを指摘したが、論文の撤回や訂正は為されず、反論は「読者の声」欄で片付けられてしまったそうだ。そして、この論文は、いまだに「マグロ資源は危ない」と主張したがる人たちによってバイブルのように扱われ、科学的根拠として引用され、マグロ漁に関わる人たちを苦しめ続けているのだという。そして執筆者は、「いったん公開された誤った情報は、意図的か、無知からくる誤りかは別にしても怖いものである」と結ぶ。

 STAP細胞問題と重なり合うとは必ずしも思わない。STAP細胞の場合は、検証実験によってその存在が確かめられなければ、撤回されなかったとしても、論文の価値はゼロになって、他に影響を与え続けるということはないと思われるからだ。

 一方、世の中には明確に白黒が付けられない問題もあるし、情報によって一度出来上がった「イメージ」が、容易に変えられないという場合も確かにある。特に社会問題に関する報道では、誰かの名誉に関わる部分で、往々にしてそのような現象が起きる。私が論文を書く時でも、論拠を示すことはかなり厳しく求められるが、その論拠自体が間違っていないかどうか検証することについては、さほど厳格ではない。一度流された情報が消えることなく価値を持ち続ければ、ウソの上にウソが作り上げられる可能性がある、ということである。これは更に怖いことだ。

 間違った内容の論文を「亡霊」化させないためには、情報を受け取る側が、『Nature』のような看板で判断するのではなく、論文それ自体の価値を独自に評価するしかない。なんだか、先日書いた「学歴」の話とよく似たことになってきた。学校が落ちる所まで落ちれば、人々が学歴を当てにしなくなり、その時初めて個々人の価値に目を向けるようになる。『Nature』も、杜撰な論文の掲載を繰り返すことによってこそ、成熟した社会を誘導するのかも知れない。だが、これだけ情報のあふれている社会では、「権威」という目安がなくなり、全ての情報を同じまな板の上に並べて評価するのは、なかなか難しい。「権威」は全面的な価値の証明にはならないが、情報をふるいにかけるという機能は果たしている。なくなることの不都合も大きい。なかなか難しいものである。