マーラー交響曲第4番・・・仙台フィル第282回定期



 昨日は、石巻市立門脇小学校の最後の運動会が行われた。創立140年を誇る市内最古の小学校も、震災の影響で学区の3分の2を失い、来春、石巻小学校への統合=廃校が決まっているからである。晴れてはいるが、強風が吹き狂い、ものすごい砂埃の舞う中、ともかくもつつがなく運動会を終えることができた。全校生徒数は、現在100名以上いるので、一見すると、どうしてこの学校が閉校になんかなるの?という感じだが、ひとクラスでもおかしくない人数がいるのは5、6年生だけで、3人だけで入場した1年生を見ると、その先細りがとても印象的だ。

 午後は、仙台フィルの第282回定期演奏会に行った。指揮はミュージック・パートナーの山田和樹。曲目は、プロコフィエフのバイオリン協奏曲第2番(独奏:アリョーナ・バーエワ)とマーラー交響曲第4番(独唱:高橋絵里)という、私の大好きな2曲である。曲目から言えば、今年これ以上の演奏会は望めないだろう。

 しかし、会場に着いた時には、私はすっかりくたびれていたのである。何しろ、7時から運動会の準備に参加し、その後、寒さと砂埃とに耐えながら午前中一杯小学校の校庭にいた。後片付けを失礼して、3時の演奏会に間に合うよう、あわてて仙台に駆け付けた。このドタバタの影響は小さくなかった。世におびただしくあるバイオリン協奏曲の中でも10指に入る、と私が思っている名曲・プロコフィエフの第2番の3分の2くらいを、私は寝ていた。

 そのおかげと言うべきか、後半は頭もスッキリし、マーラーは眠気を催すこともなく、退屈も感じず、本当に楽しむことができた。

 山田和樹という将来を嘱望される(らしい)若者の演奏を聴くのは2度目である。前回、昨年1月19日のことについてもこのブログに書いた(→こちら)。その時、私は「若い割に上品でお行儀がよく、はじけるような自己主張がないので、意外につまらないと思った。若者には、これだけ大編成のオーケストラがあってもまだ自分の言いたいことが表現できない!という苛立ちを感じるくらいの破天荒さが欲しい」と書いた。それを読んで反省したと見えて(笑)、昨日のマーラーは、そんな物足りなさを全く感じることのない力演であった。

 もともと、マーラーの作品自体が、非常に表現主義的な、いわば自己主張の固まりのような音楽である。その結果として作品は極端なまでの巨大化をたどった。その中にあって、第4番は編成が比較的小さく(合唱はもとより、トロンボーンやチューバが使われていない)、4楽章形式で、長さも1時間に満たないことから、「室内楽的」とか「マーラーの古典交響曲」とか言われることが多い。それでも、楽員はステージ狭しと並ぶわけだし、曲想はあまりにもマーラー的で、音の振幅も大きい。そのマーラー的な要素を、いささか誇張して演奏するくらいの時に、マーラーの音楽と、それを生で聴くことの価値をしみじみと感じることができる。昨日の演奏には、そのような「望まれる過剰」とも言うべきものがあった。また、指揮者の判断で特に補強しているということもないのに、管楽器群の音が非常に分厚く、ハープもよく響くように使われていた。これらのことが、マーラーの第4番を「巨大な室内楽」らしく響かせて成功していたことの要因だろう。

 マーラーに特に多いと思われる、弦楽器の最弱音による音の入りは、美しさにおいても揃いにおいても不十分で、そこについてだけは仙台フィルの限界を感じた。第3楽章最後の強奏部分を演奏中にステージに現れたソプラノは、まずまず。歌い出しはそうでもなかったが、間もなく、この曲にどうしても必要な透明感が漂ってきて好演だった。

 プロコフィエフを聴き損じたのは残念だったが、いくら疲れていたとは言え、そんな私を目覚めさせておくだけの力が演奏に無かったのだ、と思ってあきらめることにした。


(おまけ)

 アバドが亡くなった時、アバドウィーンフィルを振ったこの曲を聴いて感動した話を書いた。久々に聴いて、なんと美しく穏やかで、濃厚な叙情に満ちた魅力的な音楽だろう、と思い、私の中に小さなマーラーブームを巻き起こしていた。そうして聴いた中で、私がアバドとともに最も素晴らしいと思ったのは、悔しいことに(←この意味が分からない人は、私がかつてノリントンについて書いた文章を探して参照されたし)、R・ノリントン指揮シュトゥットガルト放送交響楽団によるライブ録音であった。

 ノリントンの演奏は、ピュア・トーンといって、弦楽器奏者にヴィブラートをかけさせないことを大きな特徴の一つとする。ピュア・トーンでエルガーを演奏し、ロンドンの聴衆から大きなブーイングを浴びせられたという話は有名で、何でもピュア・トーンで演奏すればいいというものではない。もちろん、オーケストラにおけるヴィブラートの歴史はこの70〜80年くらいのはずなので、それ以後の作品については、音楽学者・ノリントンがピュア・トーンを使うわけがない。マーラーの第4番は1900年完成なので、ピュア・トーンの守備範囲になるわけだ。オーケストラの奏法の変遷には、それなりの必然性があると思うので、私は特にピュア・トーンの支持者であるわけではない。むしろ、ノリントンらしい奇抜さの一部として、感情的に素直になれない部分がある。しかし、これがマーラーの第4番では、妙にしっくりとくるのだ。それは、この曲の「室内楽性」によっているだろう。それだけが原因ではないが、とにかく名盤である。

 もうひとつ、プロコフィエフのバイオリン協奏曲第2番の私のお気に入りは、チョン・キョンファがA・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団とともに録音した一枚である。この録音に限らず、チョンは私が最も高く評価しているバイオリニストである。プロコフィエフの2番についても、彼女の演奏は魅力的だ、ということだ。強烈な個性と強靱な意志を感じさせる。いい意味で、韓国の「熱さ」がみなぎっていると言ってよいだろう。有名なチョン三兄弟であるが、姉であるチェリストのミョンファは言うに及ばず、弟である世界的指揮者ミュンフンよりも、私の評価ははるかに上である。同じくプロコフィエフの第1番と、ストラビンスキーの協奏曲を合わせた一枚は、私のバイオリン愛聴盤ベスト10に入る。一度ステージに接してみたいと思いながら、果たすチャンスがない。