ますます「環境問題」



 政治に関わる問題の中で、私が最も強い関心を持ち、危機感を感じているのは、環境問題であり、次が食糧自給だ。このブログをよく読んでくれている人にとっては、意外ではないだろう。確かに民主主義のあり方の問題も、集団的自衛権の問題も、原発の問題も大切なのだが、最近、環境問題を最優先に考えれば、全てが問題にならないことに気付いたのである。

 6月7日の『朝日新聞』に、環境省の発表として、地球温暖化が最も進んだ場合、「真夏日」となる日が今世紀末に全国平均で52.6日増えるという予測が載っていた。2020〜2030年までに世界の温室効果ガスを減少に転じさせるという、夢物語のような厳しい温暖化対策を実現させたとしても、12.3日は増えるらしい。現在、東京の「真夏日」日数は平均で48.5日だから、倍以上になることになる。しかも、「真夏日」の増え方は全国均一ではないので、東京の場合58.4日であり、合計で106.9日、1年のほぼ3分の1、すなわち4ヶ月弱が「真夏日」という灼熱地獄となる。もちろん、ことは「真夏日」の増加に止まらない。「猛暑日」も増え最高気温も上がるだろうし、何より、自然災害の激烈化は想像を絶する。今年も既に、「観測史上最高」とか「統計を取り始めて初めて」という言葉を幾度となく(ほとんど毎日のように)耳にしている。また、今の人々を見ていると、それだけ暑くなった時に、ますますエアコンのような文明の利器に頼って身を守ろうとするだろうから、気温の上昇は間違いなく「想定」の上限を超える、と私は思っている。中国の脅威はまだ「かも知れない」のレベルだが、環境問題の脅威は「間違いなく」のレベルであろう。

 さて、民主主義のあり方については少し置いておいて、集団的自衛権原発の問題である。なぜこれらが、環境を優先に考えた時に深刻さを減ずるかと言えば、環境問題を克服しようと思えば豊かさを放棄せざるを得ず、豊かさを放棄すれば、領土やエネルギーはさほど必要ではなくなるからである。シーレーンの防衛だって不要となる。

 思うに、私たちは石油の力を借りながら、「身の丈」をはるかに超えた生活をするようになってしまった。人間の生物としての原点は、食べるということなのだから、まず食糧の自給を実現させるべきだ。エネルギーも自給を目標とすべきである。だから、今のような石油に頼り切った農業ではなく、人手を費やした農業でなければならない。戦争なんてもってのほか。データが手元にあるわけではないけれども、戦争が最大の資源浪費であることなど、火を見るよりも明らかである。資源の確保に血眼にならなければ、戦争の起こる原因も生じず、戦争をする可能性が無ければ、集団的自衛権特定秘密保護法も必要ない。原発がエコだというのもあり得ない。建設や燃料の採掘、精錬、移送にどれくらい膨大な石油が費やされていることか。加えて、ひとたび事故が起これば、広大な「死の土地」が生まれ、「除染」など目指した日には、石油の消費は更に加速する。

 食べられることは当たり前、石油も手に入って当たり前、ガソリン代の160円が高いと文句を言い、東北地方でも、暑いと感じればすぐにエアコンのスイッチを入れる。電気はコンセントから、水は蛇口から、自然かつ無限に出てくるものだ。・・・これらが「当たり前」だというのは、少なくとも私にとっては異常な感覚である。

 生身の自分にできることだけが、することを許されていることである。それが原点であり、その原点を大切にすれば、環境はさほど悪化しないのではないか?欲にまみれ、経済発展を金科玉条とするから、人口の減少も問題となる。だが、日本列島に1億2千万人というのが、既に「身の丈」をはるかに逸脱しているのではないか?「身の丈」をわきまえていれば、少しでもオマケが付いた時に、心からありがたいと思い、幸せを噛みしめることができるのではないか?集団的自衛権に関するおめでたい議論を聞き、日々「観測史上最高」の報道に接しながら、私はうろうろとこんなことを考えている。