遅すぎるけど・・・『河北新報』の防潮堤社説



 6月11日の『河北新報』は、社説で巨大防潮堤問題を取り上げた。見出しには「合意なき「壁」で何を守るのか」とある。行政が強力に推し進めようとしている巨大防潮堤について、特に住民の意見に耳を傾けないことについて、かなり手厳しい批判を述べている。

「仮に、それが住民の命を守る手立てだとの信念で復興事業を推し進めたとしよう。しかし、住民の理解と納得を軽視する形で造った防潮堤によって土地の魅力が減じてしまえば、やがて人々はその土地から去っていく。そうなったとき、巨大防潮堤は一体何を守ろうというのか。」

 巨大防潮堤問題については、私は相当早い時期から批判してきた。このブログでは、2011年11月17日記事のコメントへの返信あたりが最も古いかと思うが、身近な人との会話の中では、プランが提示された直後から「アホじゃなかろうか!?」と大騒ぎしていた。ひとつの例として、2012年1月12日の記事(全文は→こちら)を一部引いておこう。我が家の下の門脇・南浜地区の復興計画についてのくだりである。私と『河北』との間に、巨大防潮堤が出来たことによって、空を見ながらその場で生きると土地を捨てるとの違いはあるが、防潮堤を恨む気持ちは同じだし、最後の一節など、これを読んで『河北』がパクったか、と思うほどである。

「いくら今回の震災が歴史的事件であっても、ほとぼりは必ず冷める。その時に、人は7.2mの防潮堤と幅50m高さ5mの高盛土道路の谷間で、空を見つめながら何を思うのだろう。そういう場所で育った子供は、どのような感性を持つようになるのだろう。陸前高田市も、繊細優美な「高田の松原」の跡に巨大な壁を築くのだろうか?日本各地にある白砂青松の海岸線は、「危険」だという理由で消えていくのだろうか?人が危ないと思う場所から撤退すれば済むだけなのに、そこまでして守ろうとするものとは一体何なのだろうか?」

 私の記憶によれば、この巨大防潮堤問題に関し、政治家や報道の雰囲気が変わり始めたのは、昨年末頃からである。そのことについても触れたことがある(→こちら)。

 『河北新報』という被災地の最有力紙は、今回まで、防潮堤問題に触れる時には、県知事を始めとする行政側の主張や、気仙沼地区を中心とする巨大防潮堤建設に反対する住民の主張を、社としての意見を交えることなく淡々と事実として報道してきたように記憶する。それは新聞社として、ある一面から見ればやむをえない、もしくは正しい姿勢であるようにも見えるが、コラムや社説という、社としての意見を表明していく場所が設定してある以上、社論を述べて世論形成に力を持つのも新聞社の使命だと思う。そこで防潮堤問題に今まで触れずに来たことは、少しずるいような情けないような気もして不満を感じていた。だから、今回、遅きに失した感はあるけれども、批判的なスタンスで社説が書かれたことによって、私は若干の溜飲を下げた。しかし、やはり遅い。

 私が書いたとおり、「ほとぼり」が「冷め」てきた結果として、いろいろな問題が見え始めてきたということかも知れない。だとすれば、本当は、震災後のあらゆることについて、できるだけ3年か5年くらい頭を冷やしてから案を練るのがよいのだな。待つわけにはいかない事業がたくさんあるのも事実だが、それでも、巨大防潮堤を筆頭として、田んぼを埋め立てたり山を崩して新しい造成地を作ったことや、むやみに土地のかさ上げをしたりしたことについては、後悔する日がやがて来る、と私は思っている。

「過去、幾度となく津波被害に遭ってきた三陸の住民は、しなやかに、あるいはある種の諦観をもって海と向き合い、生きてきた。足元の防潮堤は、そんな精神性をも押しつぶそうとしているように見える。」 

 今回の「社説」の結びの部分だ。3年以上も放っておいて、今更この書き方は尊大だ。震災後1年以内の「社説」の一節としてなら、私は感動に胸を振るわせただろう。