志津川=土盛りの風景



 先週、気仙沼に行った時のことで、少し補足を書いておこう。

 BRTで通った志津川の街では、盛大な土盛り工事が行われていた。旧市街に高さ数メートルの台形状の盛土が築かれ、更にその上に大きな看板が立っていて、矢印で「盛り土ここまで→ 10.5m」と書かれている。看板に線が引いてある海抜10.5mまで土は積み重ねられるらしい。

 一部の港湾施設などを部分的にかさ上げするのは仕方がないし、時折冠水するといった場所に冠水対策を施すのは仕方がないと思うが、女川や志津川のように市街地全体をかさ上げすることに、私は極めて批判的だ。志津川の10.5mを目指す土盛り工事を目の当たりにして、狂気だ、とさえ思った。私がそう思う理由はふたつある。

 一つ目は、費やす資源と労力の大きさだ。何ヘクタールもの土地を10mかさ上げするためには、膨大な土が必要で、それはダンプカーでどこかから、場合によっては山を崩してまで都合して運んでくる。かさ上げに必要な土の全体量から比べれば、ダンプカー1台分の土なんて、耳かき1杯にも及ばない程度のものだろう。延べ数で言えば、正に気が遠くなるほどのダンプカー石油を燃やして走り、パワーショベルが同じく山を崩しているはずだ。資源のない国に生き、資源が今後の世代にとっても財産であることを思う時、この途方もない消費を、まずは恐れる。

 もうひとつは、こうしてかさ上げをするのは、元の街と同様の街が再生される、元の住人がこの地に戻ってくるという前提に基づくだろうが、そんなことはあり得ないと思うからである。女川や志津川も同様であるが、街というのは、元々産業との結びつきの中で、それに適当な場所を選んで作られてきた。志津川であれば、それは志津川湾での漁業を中心とし、それをするのに便利な場所として、かつての志津川の街が生まれたのだと想像する。女川は更にそのことがはっきりしている。

 しかし、現在、漁業人口は減少しており、以前からの流れやしがらみでそこに住んではいたものの、町外に仕事があって、車で通っている人は少なくない。震災で職場を失った人もいるだろう。だとすれば、震災で街が消えた後、どうしてもその場に戻って住まなければならないという必然性はない。「以前からのしがらみ」は、津波によって流されてしまったのである。人によっては、「幸いにして」でさえあるはずだ。何十年とその地に住んできた老人の中には、元の場所に戻ることに対する強い執着もあるだろうが、若い人々の中でそんな思いを持っている人は、おそらく少ない。実際に、南三陸町の調査(→こちら)によれば、志津川の場合、震災後、「町外に移転」「街が整備する高台には移転しない」「分からない・検討中」が半数近い46%である一方、「街が整備する高台に移転」は22%に過ぎない(ここで言う「高台」が、どのような土地を意味するのかは不明。私の感覚では、後背地の山を切り崩して造成した土地が「高台」であって、海岸の10.5mは「高台」とは言わない)。

 食糧自給率40%の日本は、エネルギー資源の問題や、他国の人口爆発、耕地面積の減少などによって、将来、再び農水産業に目を向け、力を費やさなければならなくなるだろう。だが、そうなるまでにはまだ多少時間がかかるだろうし、その間に、農水産業との関係で発達した街は斜陽化することが避けられない。志津川も、その流れの中にある。膨大なエネルギーを費やして10m以上も土地をかさ上げし、その土地が雑草の生い茂る荒野になるとすれば、これは悲劇であり、後の世代に対する犯罪である。

 冷静さを取り戻すためには時間が必要で、時間をかければ人はますます離れていく。これは難しいジレンマだ。だが、そもそも土地というのは運動し、伸縮消長を繰り返しているものである。それは自然の摂理だ。何でもかんでも、力尽くで人間の論理を押し通し、自然を克服していこうとするのは間違っている。また、災害は津波だけではない。土を積み上げて無理に人間が作った土地は、液状化を起こしやすいなど、津波以外のことに対する弱点も持つはずだ。

 私たち人間は、地球の動きに素直に付き従っていくしかないのだ。申し訳ないが、街全体をかさ上げする作業は、私にとって人間の傲慢と横暴以外の何物でもない。志津川で見た土盛りの作業は、そんな人間の愚かさを象徴する哀しい光景だった。