函館本線121レ(1)



 先日、寝台列車、客車が続々と廃止されていくことを嘆きつつ、新幹線の対極にある、最も情緒にあふれる列車として、「磐越西線235レ(列車)」の思い出を少し書いた(→こちら)。そうしたところ、一時代前の客車による鉄道旅行の記憶をもう少し書いておきたくなった。今回は、「函館本線121レ」である。

 1979年、私が高校2年の時、友人数名とにわかに結成した「鉄道研究会」の夏休み企画として、北海道旅行を企てた。単なる旅行であり、秋に行われる文化祭のネタ作りであったが、大義名分は「受験を予定する北海道大学の下見」であった。私は、中学校時代に患った病気の(術後)経過観察で、長期休暇のたびに、兵庫県の西の端から東北大学病院に通っていたので、親にしてみれば、仙台に行っていようが、北海道まで足を伸ばしていようが、同じことだったに違いない。何も文句は言われなかった。なにしろ鉄研の旅行である。最速の列車による旅行では平凡すぎて面白くない。そして、最終的に決まったのが、各駅停車による48時間かけての札幌行きであった。当時の時刻表に従って、その行程を復元すると次のようになる。ちなみに、本竜野を出発したのは8月7日である。

竜野15:19→(383D)→15:47姫路15:49→(830M)→20:02大垣20:25→(344M)→4:40東京4:49→(山手線)→4:56上野5:09→(451M)→8:40平(現いわき)8:44→(241レ)→12:09仙台13:18→(1533レ)→22:37青森0:35→(青函連絡船1便)→4:25函館6:20→(121レ)→15:19銭函15:53→(875M)→16:14札幌

 このような旅程表で、山手線の時刻が書けるというのは珍しい。朝が早く、始発から2本目なので、『時刻表』の末尾に付いている「東京近郊区間」の時刻表にも、時刻が記載されているのである。時刻が書いてあるのは3本目までで、それ以降は「この間3〜6分毎」として省略されてしまう。

 「函館本線121レ」は旭川行きだった。それをなぜ銭函(ぜにばこ)で降りたかというと、当時、金持ちになるためのお守りとして銭函駅の入場券が売れていたのだが、「121レ」の車中で、突然、友人がそれを買いたいと言い出したからである。そのことがなければ、15:45に札幌で「121レ」を降りていたはずであり、それが出発前の予定であった。

 それにしても、1日目の夜を大垣→東京の夜行電車(現在は快速「ムーンライトながら」という季節列車になってしまった)で過ごすと、2日目の夜は、青函連絡船で過ごすことになり、宿に泊まることなく札幌まで行けるというのは、偶然とは言え、上手くできていたものである。止まるたびに駅名看板の写真を撮り、主要駅では「○○駅着 竜野から〜Km ○時間○分」と書いた画用紙を持って記念撮影しながらの旅行であった。

 列車番号を見て分かるとおり、平(たいら)から北は客車であった。もちろん、チョコレート色か青の旧型客車であり、明瞭に覚えてはいないが、おそらく青森まではED75という電気機関車、北海道に入ってからはDD51というディーゼル機関車が牽引していた。平は常磐線で、福島県(東北地方)に入って6番目の駅であるが、それ以南の5駅も全て「いわき市」であった(当時、いわき市は面積において日本最大の市だったはずである)。だから、平より南は電車、北は客車というのは、東北・北海道の後進性を表していただろう。仙台→青森、函館→旭川など、当時の列車にはロングランのものが多かった(この時の私たちは乗れなかったが、常磐線には上野〜仙台の直通列車も1日に2本走っていた)。

 函館から札幌に鉄道で向かう人は、ほとんど全て、函館本線長万部まで)、室蘭本線(沼ノ端まで)、千歳線という経路を通る。これは今でも当時でも同じだ。特急「おおぞら」「北斗」「おおとり」、急行「すずらん」といった列車は、これら3線を経由していた(現在は「北斗」だけが「スーパー北斗」として生き残り、新たに「はまなす」という青森始発の急行が走るようになっている)。ところが、函館本線というのは、函館〜長万部(おしゃまんべ)ではない。函館〜長万部倶知安(くっちゃん)〜小樽〜札幌〜旭川である。つまり、「121レ」は、函館本線全線を走り通す普通列車だったわけである。

 函館本線の開通は明治であるが、室蘭本線は昭和に入ってから全通した。函館・札幌間の幹線は、あくまでも函館本線であった。ところが、室蘭本線が開通すると、徐々にそちらへと比重が移り始める。距離は30Km以上長いのだが、海岸沿いを走っていて平坦・直線的であり、高速運転が可能な上、伊達紋別、室蘭、登別、苫小牧といった都市があり、大きな製鉄所や製紙工場、港湾施設などがあって、鉄道需要も大きい。一方、函館本線は、羊蹄山ニセコの麓を走る山越え路線だ。曲線と急勾配が連続する上、小樽以外に町らしい町がない。私が「121レ」で通るよりも更に一昔以上前、C62が重連で山越えをする姿は、鉄道写真家たちに人気があった。しかし、鉄道は趣味のために走っているわけではない。1979年には、かろうじて特急「北海」、急行「ニセコ」「宗谷」という直通列車が長万部〜札幌間を走り抜け、倶知安以北には「らいでん」「いぶり」という急行も走っていたが、それらは全て1986年までに廃止された。一方、長万部〜小樽(なぜ札幌でないかというと、小樽〜札幌間は電化された大都市近郊型の路線であり、性質が違うから)を通して走る普通列車は7本で、これは当時も今も同じだ。少し意外である。(つづく)