鉛筆の持ち方



 最近、授業中に生徒を見ていて、鉛筆の持ち方がとても気になる。変だ、変だと思いながら、変な鉛筆の持ち方をしている生徒を数えてみたら、どのクラスでも、4分の3くらいに上ることが分かった。これは尋常でない数字である。どのクラスもさほど変わりがない。他の学校でも同様かどうかは分からない。

 変な鉛筆の持ち方の多くは、人差し指で鉛筆を抱き、その上から親指を重ねる、というものである。人差し指と親指の腹をくっつけ、二本の指が反った形になっているものもある。更にすごいのは、人差し指と中指の二本あるいはそれ以上の指で鉛筆を抱き、親指は人差し指と重ならない形で、人差し指の上に添えられているというものだ。一見すると、げんこつで鉛筆を握りしめているように見える。微妙な違いを問題にすれば、他にもいろいろなバリエーションがある。

 ネットで検索してみると、鉛筆の正しい持ち方も二種類あるようだが、なぜ、正しい持ち方をする必要があるかというと、そうすれば手と腕の関節に無理が加わらず、鉛筆を自在に動かせて、疲れが溜まりにくい、ということらしい。

 鉛筆を正しく持てない生徒の特徴は、鉛筆を通常よりも立てて持つ、ということだ。通常は50度くらいであるはずの角度が80度、ひどいのになると、手前に向かって傾斜していたりする。あれでよく字が書けるものだな、と感心するが、そのことに気付いた時、ふと思い浮かんだ本がある。山根一眞『変体少女文字の研究』(講談社、1986年)だ。

 1970年ころから、主に女の子が、線が細く、丸みを帯びた幼い字(作者はそれを「変体少女文字」と命名した)を書く事に気付いた作者が、彼女たちはなぜそのような文字を書くのか、ということを探求した本である。これはおそらく、作者が違和感を感じただけでなく、社会問題とも言ってよいような現象だったと思う。

 水森亜土という漫画家が、作品の中でそのような文字を使っていたことから、若者がその真似をするようになったのではないか、という説が、もっともらしく語られていた。作者はそのような俗説をとりあえず横に置き、全国の学校で書かれた作文類からラブホテルの寄せ書き帳に到るまでを収集・調査し、いつ、どこで、それらの文字が使われ始めたのか、その時、日本で何が起こったのか、ということを冷静に考察する。

 その結果、作者は、シャープペンの普及、文部省(当時)による日本語の横書き許容と変体少女文字の出現に深い関係があるのではないか、との考えに達した。シャープペンの普及は、0.5mmという当時としては極端に細い芯が折れないように字を書くため、鉛筆を立てて持つという習慣を生み、横書きは、縦書きの際に縦長だった文字の縦の長さを短くした。バネを縦書き、横書きで書き比べてみると。縦書きのバネは上下に伸び、横書きのバネはまん丸になり、その理屈がよく分かるという指摘は、あまりにも鮮やかだった。そして、これらが複合的に作用した時、文字は丸くなるのである。かわいいから丸い文字を書くという感覚的なものではなく、物理的なものだったわけだ。身の回りの素朴な疑問を、風評に流されず、丹念に追求し考察したことは立派であり、『変体少女文字の研究』は「名著」とまでは言わないものの、「好著」であり、「労作」と呼ぶことができる本として私の記憶に残った。

 それから30年。シャープペンの芯は丈夫になり、折れにくくなった。筆圧が非常に強い私でさえ、意識してシャープペンを立てなくても、芯は折れない。つまり、あえて鉛筆を立てて持つ必要はなくなったのである。にもかかわらず、高校生は鉛筆を立てて持つ。これは一体何なのだろう?

 鉛筆やペンで紙に字を書く機会というのは激減した。私も、公私を問わず、文字の大半はPCで書いている。先日、某大学生と話をしていたら、大学でも提出物(レポート類)は全てPC作成、ノートもPCでとり、文字を手書きする機会はほとんど無い、と言っていた。正しい鉛筆の持ち方をすることが、体に負担をかけることなく、長時間文字を書き続けられるようにするため必要だとすれば、そもそもその必要性が低下しているのである。こうなると、「正しい持ち方」に意味があるかどうかは甚だ怪しい。

 それでも、私なんかは、見た瞬間に「みっともない」と感じ、「行儀が悪い」と思ってしまうのだが、私自身の「慣れ」とか「習慣」に反するというだけであり、それこそ偏見であるかも知れない。生徒に注意をすると、今までこれで不自由なく字を書いてきたのに、何の文句があるのか?みたいな顔をされるだけだ。目下、その理由と対応について悩んでいるところである。