タテマエの暴走



 日曜日の新聞各紙は、アテネオリンピック・銀メダリストで日体大アーチェリー部の部長・山本博氏が、未成年部員に飲酒を勧めたとして部長を辞任したことを伝えた。発覚から辞任に到るいきさつは分からない。私が見た範囲では、わざわざ山本氏の顔写真まで載せていたものも少なくない。

 世の中の人は、この記事を読んで、「山本は選手としては優秀でも、人間としてはカスだな」などと思うのかな?私なんかは、むしろ、大学生に酒を勧めてどうして悪いのかな?と思う。部長という地位を利用して、嫌がる未成年部員に「一気飲み」を無理強いした、などというのでなければ・・・だ。ま、こうなると「飲酒を勧めた」ではなく、パワハラが問題なのだけど・・・。

 おそらく、世の中の人で、大学生も20歳になるまでは酒を呑んではならん、などと思っている人は、ごく少数だろう。少なくとも、私が大学生だった頃は、大学生かどうかだけが問題であって、大学内に「20歳の線」などというものは全く存在しなかった。酒やタバコについて、医学的に「20歳」がどれくらい意味のあることなのか分からないので、あまり無責任なことは言えないが、高校を出た人間に、まだ未成年だからダメだと言って特別扱いするのは、精神の成長上むしろ有害なのではあるまいか?

 私が不愉快なのは、規則は規則であるとして、タテマエが大きな顔をすることだ。タテマエの暴走、と言ってもいいだろう。これは、非常に窮屈な社会を作ることになる。もちろん、仮に、山本氏が自身のブログで、「高校を出たばかりの新入部員に、試合で頑張ったので、しこたま酒を呑ませてやった」などと書いたりしたら、それはそれでホンネの暴走として問題だ。ホンネとタテマエのどちらに偏することもなく、なんとなく限度をわきまえて、なあなあで、かつ楽しく生きていくのが「人の道」というものである。

 よく言われることだと思うが、規則は人間の生活を円滑にするために存在するのであって、守るためにあるのではない。規則を守ることに価値があれば守る、そうでなければごまかす。そうして円満な社会と楽しい生活とを作り出す。規則が作り出すのではない。人間が作り出すのだ。規則を守ることは断じて自己目的化してはならない。

 同時に、殺人は悪なのに、戦争は正当化されるのと同様、小悪は悪だが、大悪は悪ではない、という傾向は今でも見られる。たかだか大学生に飲酒を勧めたくらいのことが問題視されるのに、憲法をなし崩しにしようとしたり、いろいろな理由を付けて政治が人の精神的な自由(良心や表現の自由)を奪ったりすることは許される。未成年者を内側から蝕む携帯電話やスマホのようなものは野放しにされている。こういうアンバランスとそんな中に見え隠れする正義漢面も、私にはひどく不愉快だ。