急行「八甲田」と「津軽」(2)



 急行「八甲田」は、1日1往復の夜行列車であったが、私が利用したのはもっぱら下り列車で、仙台からである。なぜか、上り列車は利用したことがない。上野発19:10、青森着6:15で、仙台は0:24着、0:46発であった。この約20分の停車時間に、増結という作業が行われた。すなわち、「八甲田」は11両(座席車9両+荷物車+郵便車)編成で入線すると、仙台でB寝台車と自由席車各1両を増結し、13両編成で青森に向かうのである。「八甲田」の利用価値は、正にこの点にこそあった。この増結があるおかげで、多少並びさえすれば、仙台という途中駅からでも間違いなく自由席に座ることができたのだ。夜行列車であるだけに、座れないのは非常につらい。私は、いつも1時間以上前にホームに行っていた。すると、行列の最前列か、悪くても3〜4人目くらいに並ぶことができた。

 「八甲田」は仙台に着くと、機関車が離れ、間もなく2両の客車を押す形で戻ってくる。2両は、上野側がB寝台車、青森側が座席車だ。私たちが行列している目の前を、B寝台車がゆっくりと通り過ぎて行く。10系の古くさい寝台車なのだが、他が普通列車と同じチョコレート色か青の旧型客車だということもあり、寝台車は高級感に輝いて見えた。上野から走ってきた車両に寝台車は含まれていなかった。青森までのわずか5時間半のために寝台券を買うのは、お金があったとしても贅沢だし、バカバカしい、と私は思っていた。今思い出してみても、寝台車は上野からつないでくるのが正しいやり方のような気がする。

 「八甲田」の旧型客車は、両端に幅の狭いドアがあるだけなので、多くの人が車内になだれ込むということもなく(できず)、悠然と窓際のいい席を占めることが出来た。もっとも、上野から走ってきた車両にどれくらい人が乗っているのかを、私は見て確認したことがない(と思う)。上野から来た車両と仙台でつないだ自由席車の間には寝台車があって、自由に行き来ができず、ちょっと見に行く、というわけにはいかなかったのだ。仙台で増結した車両よりもそちらの方が空いていたりしたら、あの席取りは滑稽な茶番であった。自由席同士行き来できた方が、旅客を平均化して混雑を緩和するにはいいはずなのに、なぜ、寝台車を中に挟んでそれを邪魔したのかは分からない。

 さて、一般的なことだけ書いても面白くないので、「八甲田」を利用した何回かの中から、1977年(昭和52年)、私が中学3年生の時の夏のことを書いておこう。この時は、性質のよく似た急行列車「津軽」にも乗っているからである。

 8月1日、私はいつになくブルーな気分で「八甲田」に乗った。というのも、1ヶ月あまり前に、大量の鼻出血があったので、まずいな、と思ってはいたのだが、7月23日に検査に行ったところ、案の定「再発→再手術」を宣告されてしまったのである。ベッドに空きがないので、連絡があるまで待機するように言われ、なかなか連絡が無いのをいいことに、3日ほど仙台を離れることにした。そうして乗った「八甲田」である。仙台に戻ったら、うんざりするくらい煩わしい検査と大手術が待っていると思うと、気が重かった。

 例によって、列車(増結車両)は混んでいた。八戸前後から夜が白々と明け始め、5:35、私は野辺地で「八甲田」を降りた。青森の夏の朝は寒かった。この時の旅行の目的は、南部縦貫鉄道(野辺地〜七戸、当時、日本で唯一旧型のレールバスが走る路線として有名。1997年に実質廃止)に乗ることと、本州最北端・大間岬に立つことだった。

野辺地6:48→(南部縦貫鉄道)→7:26七戸→(バス=時刻忘れた)→上北町9:46→(537レ)→10:07野辺地11:17→(725D)→12:28大湊12:33→(825D)→13:09大畑13:30→(バス)→14:30大間15:08→(バス)→16:10大畑17:07→(846D)→17:38下北17:41→(730D)→18:47野辺地19:38→(525レ)→20:31青森

 本題から外れてしまうので、多くは書かないが、板バネしか付いていないレールバスの硬質な振動と車両の重い動き、上北町から乗った東北本線普通列車が暴れ馬のようによく揺れたことは、強烈な印象として残っている。わずか4時間ほど前に、同じような旧型客車の「八甲田」で通った時には、それほど揺れたような記憶がないので不思議だった。

 青森からは、やはり急行で、「津軽2号」に乗った。「八甲田」と同じ旧型客車で、奥羽本線を経由して上野まで走る。青森から東京に出るには、夜行急行に限ってみても、東北本線経由の「八甲田」と常磐線経由の「十和田」(2往復)があったのだから、「津軽」は弘前〜秋田あたりの奥羽本線沿線からの需要に対応するための列車だっただろう。これが毎日2往復走っていたというのは、今にしてみれば驚きである。「奥羽本線」の持つ田舎びた印象からか、「津軽」には、なんとなく、その時代既になくなっていた集団就職のイメージがつきまとう。

 青森発20:35。いくら始発とは言え、出発間際の駆け込み乗車で座れるだろうか、という心配は杞憂だった。青森から福島以遠へ行く人は、所要時間のより短い「八甲田」や「十和田」を利用するはずだし、夏祭りが始まる直前の上り列車だったからかも知れないが、ひと車両に5人も乗っていなかった。私は4人掛けのボックスシートを一人で占領すると、ごろんと横になった。通過駅が多いので「急行」ではあるが、さほど急ぐようでもない。のんびりとしたレールの継ぎ目のリズムに、私はすぐに眠ってしまった。

 4:39、私は米沢で「津軽2号」を降りた。列車でゆっくり眠るためには、東北周遊券のエリアを出ない範囲で、例えば福島や郡山まで行くという方法もあったのだが、この日の午後、私は上ノ山市の坊平高原で、友人たちとキャンプをすることになっていたのだ。上ノ山駅(現:上ノ山温泉駅)での待ち合わせ時刻までの時間つぶしとして、私は「津軽2号」を米沢駅で降り、長井線(現:山形鉄道フラワー長井線)を乗りに行くことにしていた(米沢5:16→(141D)→6:11長井6:24→(221D)→6:44荒砥6:53→(224D)→7:56赤湯8:26→(421レ)→8:49上ノ山)。早朝の米沢は、前日の野辺地と違って、いかにも暑い日になるという予感を漂わせるような、けだるくぼんやりとした雰囲気だった。

 今、中学生時代のこんな旅行の記憶をたどっていて、当時の自分の若さと元気さに驚かされる。ただ、ひときわ強く記憶に残っているのは、やはり、いかにも前時代の東北といった泥臭い急行列車の思い出なのである。

 後日談。

 1981年に大学に入学して仙台市内に住むようになり、逆に私は東北旅行のチャンスを失った。そしてもちろん、「八甲田」や「津軽」を利用することもなくなった。たった一度、1986年9月7日に、とある事情で、盛岡から仙台まで「八甲田」に乗った(23:02発、1:26着)。チョコレート色の旧型客車は既に使われておらず、ロマンスシートで空調付きの特急用車両14系になっていた。客はほとんど乗っておらず、きれいで快適ではあるが、なんだか知らない人の家でお客さんになったような気分がし、懐かしさも愛着も感じることができなかった。

 それから7年後(1993年)、「八甲田」は臨時列車に格下げとなり、更に5年(1998年)で廃止された。東北新幹線は盛岡・大宮間が1982年、上野までが1985年に開業しているわけだから、いくら特急用車両になったとは言っても、前時代的な急行列車の末裔が、よくそこまで持ちこたえものだ、と思う。一方、「津軽」は1990年に電車化された後、「八甲田」と同じ年に廃止された。現在、秋田青森間を電車特急「つがる」(4往復)が走っている。名前だけ見ると、急行列車の名残のようだが、運行区間も時間帯も機能もまったく違う無関係な列車だ。古き良き時代は、遅くとも20世紀末までに終わったのである。