ガイドブックにない桂林(2)



 蒋介石の重要な対抗勢力であった新桂系軍閥であるが、対等な力を持つほどにはならなかった。その結果として、蒋介石の言動によって桂林の政治状況も大きな影響を受けた。第2次国共合作が成立したとは言っても、蒋の思想が変わったわけではなく、1939年から1941年にかけて、蒋は共産党との合意を無視して、3回の「反共高潮」と言われる反共キャンペーンを打った。1941年の「反共高潮」を代表するのは皖南事件である。共産党指揮の新四軍が国民党軍によってだまし討ちにされ、多くの共産党員が殺された事件だ。それまで、いろいろな弾圧が行われながら、耐えて共同を維持しようとしていた共産党も、この事件によって国民党との関係に見切りを付けた。弁事処も閉鎖に追い込まれる。数多く残された証言によれば、それでも、桂林における共産党弾圧は、他の国統区に比べれば穏やかだったようだが、危険を感じた左翼的な人々は相次いで桂林を離れた。ほとぼりが冷めるに従って、彼らの中には再び桂林に戻ってきた人も多いが、特に出版関係者にその傾向が強いように思える。あの日中戦争期でさえ、桂林で紙が品切れになることはなかったという。重慶で編集された雑誌が、桂林で印刷されていたこともあった。紙が豊かで出版がしやすいという事情は、当時の中国においては、正にかけがえのない価値であったのだ。最終的に、桂林に集まった人々が離散するのは、1944年11月、日本軍が桂林にまで侵攻し、空襲と地上戦とによって市街地がほぼ全滅してしまった時のことである。当時、桂林の市街地にあった5万棟あまりの建物のうち、原形を留めていたのはわずかに471棟であるという。残存率は1%弱だ。

 私は、桂林がどのような場所であるか(地理的条件等)を確認することと、当時の桂林がどの程度今に残されているのか、桂林市がどの程度、それらの事実を伝えようとしているのか、桂林の現代史に関する何か資料は手に入らないのか、といったことを模索するために、今回、桂林を訪ねることにした。

 ところが、中国の文献に地図というものが載っているのを見ることはまれである。日本でもそうだが、地図はもともと軍によって作られ、管理されていたことに表れているとおり、機密情報を多く含んでいたためだろうか?文字文化に関しては世界一発達してきたと言って過言ではない中国で、過去の地図を探すのは困難だ。抗日戦争期の桂林と今の桂林は全く違う街だろうし、地名も多く変わっているので、当時の地図か、新旧地名の対照表がなければ、文献に見られるいろいろな場所が、今のどこに当たるのかを知ることは難しい。ただ、桂林については、共産党系の新聞「救亡日報」の編集長であった夏衍の自伝(邦題『ペンと戦争』阿部幸夫訳、東方書店、1988年)に、簡単なものではあるが、当時の桂林の地図を見つけることができ、これと現在の市街地図を対照することで、ある程度の関係を知ることができた。

 私がまず訪ねたのは弁事処である。これは、日本でインターネットによって存在が確認できていた。桂林の駅前で買った今の桂林地図にも、その存在が書かれている。王城の少し北、中山北路(旧桂北路)に面した一角で、これは夏衍の地図と一致する。行けば、古い写真で見たことがある桂林の弁事処どおりの建物があった。入り口の上に「萬祥糟坊」という扁額が掲げてある。「糟坊」とは地酒を造る酒蔵のことだ。弁事処は古い酒蔵を改造した建物であった。聞けば、桂林陥落の際に弁事処の建物も灰燼に帰したため、その歴史的価値を重要視した政府によって再建され、1977年に記念館としてオープンしたそうである。斜め裏に三階建ての博物館が併設されている。この共産党の施設に隣接して、国民党の桂林行営(=軍本部)があり、そのことが桂林の政治状況を象徴していたのだが、現在「行営」は復元されておらず、その旨を記した標柱の類いもない。

  弁事処というのは、「桂林」という地名を除くと「八路軍弁事処」であり、実質的に共産党事務所のことだ。時期によって違うが、八路軍とは、紅軍と称した中国共産党軍が、国共合作を受け、形式上、蒋介石指揮下の国民党軍の一部として位置付けられた時に与えられた名前である(他に「新四軍」もある)。「共産党弁事処」ではあまりに露骨なので、一種のカムフラージュとして「八路軍弁事処」としたのだろう。中国語を無理矢理カタカナ表記すると、「パールーチュン・パンシーチュー」となるので、一般に「八弁(パーパン)」と略して呼ばれることが多い(「新四軍弁事処」をどのように略称するかは知らない。また「パーパン」という略称も、もしかすると西安についてだけ通用するものであるかも知れない)。時期によって数が違うが、短期でも開設されたことのある弁事処を全て数えると、41箇所に及ぶ(『中国抗日戦争史地図集』中国地図出版社、1995年。この地図では、桂林の弁事処が「八路軍弁事処兼新四軍弁事処」となっている。桂林の弁事処はあくまで「八路軍桂林弁事処記念館」だが、解説には、八路軍弁事処、新四軍通訊処、中共中央南方局弁事処を兼ねていたと書かれていた。ひとつであろうが、三つ兼ねていようが、実質的な違いはないと思う。)。

 付属の博物館はとても見応えがある。1階が日本軍の残虐行為、2階が弁事処の歴史(果たした役割)、3階が中国を支援してくれた外国人、中国人の殉難者、抗日戦勝利の日について、となっているのだが、随所にテレビがあって、過去に桂林を特集した番組などが放映されている。日頃、中国語など読む機会しかない私は、聞き取りが甚だ苦手なのであるが、それらの映像のほとんどは中国語の字幕が付いているので理解できる。思わず、それらをじっくり見ながら回ったところ、3時間もかかってしまった。1階で、日本軍によって桂林がどれほどひどく破壊されたかを扱う一方、3階では中国に対する協力者として、武漢・桂林で対日工作に携わっていた鹿地亘・池田幸子夫妻を、ひときわ大きなスペースを使って取り上げていたことも印象的だった。もっとも、ここの展示物については、そのほとんどが弁事処記念館編『豊碑〜桂林抗戦紀実文物史料図集』(広西師範大学出版社、2008年)という本(写真集)にまとめられていて、見ることができる。日本でも中文書取り扱い書店で購入できるが、200元というとても高価な本なので、10000円以上する。

 狂ったように暑い桂林で、ほどよく冷房が効いていたことも、居心地がよかった理由のひとつではある。建国の歴史に深く関わる施設(=愛国主義教育に役立つ施設。「愛国主義」の「国」は、もちろん「共産党一党支配の中国」)は無料という政府方針に従い、桂林弁事処も無料である。弁事処には、「全国重点文物保護単位」「全国愛国主義教育示範基地」「国家国防教育示範基地」「全国百個経典紅色旅游景点之一」と四つもの冠が付いていた。(続く)