小さな音の吸引力・・・荘村清志の演奏会



 昨年の春、日曜夜のEテレの「らららクラシック」という歯の浮くようなタイトルの番組が、「クラシック音楽館」に変わり、質の高い演奏会をじっくり聴かせてくれるようになったのは喜ばしい(「ららら〜」は短縮して土曜日の夜に移動)。一方、それによって、日曜日の夜に2時間も身動きの取れない時間が出来てしまったことは苦しいのだが、そういうグチをこぼすのは「身勝手」というものだろう。

 先週の日曜日、Eテレのクラシック音楽館という番組では、ギタリスト荘村清志の演奏活動45周年記念演奏会を放映した。この有名なギタリストが演奏する姿を私は見たことがなかったのと、曲目の魅力とから、つい全部を見てしまった。大友直人(←この人を見ると佐村河内守を思い出して笑ってしまう)指揮、東京都交響楽団をバックにして、ロドリーゴの「ある貴紳のための幻想曲」、「アランフェス協奏曲」、「アンダルシア協奏曲」が演奏された(ファリャ「三角帽子」第2部他も演奏されたが、私は中断)。

 冒頭、ギターの魅力は何か?というインタビューに答えて、荘村は次のようなことを語った。「若い頃は、ギターでオーケストラに対抗しようとしていた。しかし近年、大きな音を聴くと人はのけぞるが、ギターの音は小さいので、人が身を乗り出して聞く。そんな音の小ささにかえって魅力があるのではないか、と考えるようになった。」

 この話を聞いて私が思い浮かべたのはクラビコードという楽器だ。金属弦を、ピアノのように勢いを付けたハンマーで叩くのではなく、鍵盤の先の突起で直接叩くものだ。恐ろしく微かな音しか出ない楽器らしい。私は30年くらいにわたって、一度本物のクラビコードの音を聴いてみたいと思い続けているが、いまだに実現していない。多分、6畳くらいの極端に小さな会場でないと、音が聞こえず、そんな小さな会場では演奏会が成り立たないからだ。一生懸命探して、CDは持っている。しかし、もともとのクラビコードの音を聴いたことがなければ、音量を再現することは出来ず、普通に聞こえるレベルの音まで大きくしてしまうので、あまり意味がない。

 私がクラビコードに興味を持ったのは、それくらい音が小さいと、演奏を聴く時にものすごい集中力が必要で、そのことが豊かな音楽体験を生むだろうと思ったからだ。荘村が語るギターの決して大きいとは言えない音の魅力についての話は、確かにその通りだと思わされた。同時に、そのような力の無い小さな音だからこそ、余韻に価値が生まれ、音楽の陰影がうまく表せるということがあるのではないか、と思った。

 ロドリーゴのギター協奏曲は、どれもこれも名曲である。私が特に好きなのは「ある貴紳のための幻想曲」だ。最初の一音から、すべてスペインの世界。私が「スペイン的」と感じるのが、音楽のどのような仕組みによるのかは分からない。フラメンコのような激しいリズムと、カスタネットに代表される打楽器の響き、というものは特徴としてすぐに思い浮かぶが、ロドリーゴの協奏曲など、三曲とも、カスタネットはおろか、ティンパニも含めて打楽器が一切使われていないのである。それでも、やはり、最初の一音から濃厚なスペインの情緒を感じさせられる。なんというもの悲しい、陰影に富んだ音楽だろうか、と思う。

 ロドリーゴ出世作であり、今に至るまで最も有名なギター協奏曲であるアランフェスが作曲されたのは、1939年だ。これは驚きである。調性音楽が行き詰まり、シェーンベルクによって12音音楽が発明されてから15年ほど経っている。ドイツやフランスを中心とするヨーロッパは、既に前衛の時代になっていたのだ。一方、ロドリーゴの協奏曲は、あまりにも古典的な調性と形式によっている。いくら、協奏曲の独奏楽器としてギターを用いるのが目新しかった(←19世紀の初めまでは作られていたが、その後100年間、忘れられていた)とは言っても、ピアノやヴァイオリンがギターに置き換わっただけで、100年以上前の様式で作曲して、それが古くさくも退屈でもないというのは意外だ。アランフェスと双璧、テデスコのギター協奏曲も1939年で、様式は至って古典的だから、ロドリーゴの力というよりは、ギターの力であり、時代がそれを求めていた、ということなのだろう。

 アンダルシア協奏曲は、4人のギタリストを必要とすることもあり、演奏機会のあまりない曲だ。この日は、荘村の演奏活動45周年を祝って集まった(?)福田進一鈴木大介大萩康司が共演した。4人によってアンコールで演奏されたボッケリーニの「序奏とファンダンゴ」は絶品。曲もいいが、4人の息の合った楽しそうな演奏の姿が印象的だった。


(補)一昨日は、山田和樹指揮のスイス・ロマンド管弦楽団。立派な演奏だったが、多言が必要なほどのものではない。ただし、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を弾いた樫本大進の余裕綽々の演奏は、圧巻であり、快感だった。恐れ入った。