宮城蔵王の歴史考



 昨日の続きみたいな話。

 Eさんの所で蔵王の古道の話を伺っていると、Eさんは、古道の場所を特定するための資料だとおっしゃって、古い蔵王の地形図のコピーを出してきてくれた。黒1色刷の5万分の1地形図で、もちろん、まだエコーラインは開通していない。当時の印刷技術の問題もあり、5万分の1という、現在の標準となっている2万5千分の1に比べると、4分の1の精度しかない縮尺だということもあって、そこに記されている登山道を元に、実際の山道の復元をするのは相当難しい作業だっただろうと思う。

 それはともかく、実はその黒い地図の実物が我が家にはある(国土地理院5万分の1地形図「上山」「白石」)。父の遺品だ。加えて、1962年にエコーラインが開通した時に出た蔵王の山岳地図(日地出版)や、蔵王の50年史(正しくは伊東五郎編『蔵王五十年の歩みとスキーの発達』山形市蔵王クラブ)、翌1963年刊のアルパインガイド『東北の山』(山と渓谷社)もある。家に帰ってから、これらを引っ張り出し、蔵王古道の位置や山全体の変化について考えているうちに、いくつかの発見があったので、書いておこうと思う。

 「白石」(昭和33年1月25日発行)では、遠刈田の西北西1.5キロ付近、すなわち現在大鳥居のあるあたりから、エコーライン方面に向かって二重破線の道が延びている。この道は2.5キロほど行ったところで、青根温泉から上ってくる同じく二重破線の道と合流し、ほぼ現在のエコーラインに沿って、地形図の左端、すなわち現在の澄川スキー場(スミカワスノーパーク)まで延び、それを引き継ぐ「上山」(昭和32年8月30日発行)では、実線に変わり、蔵王寺の所で破線に変わる。

 私は当初、二重破線は建設中のエコーラインを示していると思っていた。しかし、今回「白石」の耳の部分に書かれている「記号」の一覧を見てみると、「町村道」の「間道」と書かれていた。ちなみに、「町村道」は三種類で、「間道」「聠道」「達道」だ。これが何のことか分からない。辞書類やネットで調べても出て来ず、「間」「聠(耳偏に并)」「達」という漢字の意味から考えても分からない。

 ところが、「上山」を見てみると、わずか半年ながら、「白石」よりも前に発行されているにもかかわらず、より今に近い書き方が為されていた。「白石」の二重破線と「上山」の実線は同じ意味なのだ。「聠道」「達道」に相当する道も、「白石」と「上山」では記号が異なる。ともかく、「白石」と「上山」を対応させると、「間道」とは「道幅1米以上」、「聠道」とは「道幅2米以上」、「達道」とは「道幅3米以上」の「町村道」を表すことが分かる。つまり、今の大鳥居から蔵王に向かっては、エコーラインが開通する前から、「小径」には分類されない、1〜2メートル幅の道が存在したのだ。

 『50年史』は、エコーラインの開通について、「宮城県峨々温泉三叉路から刈田岳大黒天までの間11.13キロは昭和37年7月14日開通式を挙げ」と伝えている。「峨々温泉三叉路」とは、昔のエコーライン料金所、今の峨々温泉分岐であろう。この記述からは、遠刈田温泉から峨々温泉分岐までは、それ以前から自動車が通行可能な道路があったことを窺わせる(単に「エコーライン」という有料区間が「三叉路」からだったからそのように書いただけかも知れない)。「間道」では、エコーラインの接続路としては不十分であろうが、峨々温泉分岐から下は、「山道」としては立派すぎるほどの道があったのだ。それが「古道」であるかどうかは分からない。

 「山岳地図」を見ていて驚いたのは、峨々温泉分岐の南から上に向かって延びるリフトである。「蔵王山頂付近」の拡大図を見てみると、そこには「雲湧谷スキー場」と書かれている。この地図で、宮城県側にあるスキー場は、「南蔵王スキー場」「雲湧谷スキー場」「後見スキー場」「表蔵王国営スキー場」で、このうちリフトがあるのは「雲湧谷」だけだから、500メートルにも満たない小さなリフトとは言え、非常に先進的な設備だったわけだ。今はその名残を探すべくもないが、エコーラインと澄川の切れ込んだ谷との間には、土地なんかほとんどないのだから、なぜそんな所に無理矢理スキー場を作ったのか、不思議でならない。

 「表蔵王国営スキー場」があるのは、杉が峰の北東斜面、澄川源頭付近である。一方、「蔵王山頂付近」拡大図では、大黒天から今の澄川スキー場にかけての辺りである。どう考えても後者が正しいだろう。同じ地図の中で、場所が違うというのはケシカラン。地図を見る限りではリフトはない。この「山岳地図」は昭和37年5月発行であるが、エコーラインの開通は、宮城県側の大黒天以東がその年の7月、大黒天から上山市坊平までが11月のことである。地図は開通を見越して事前に発行されており、明らかにエコーラインよりも「表蔵王国営スキー場」の方が早く出来ていることになる。どんな人がどうやって行ったのか、そこがスキー場としてどの程度整備されていたのかは、非常に興味の感じられるところである。

 山スキーのツアーコースが2本書かれている。一つは、刈田岳から今の澄川スキー場までまっすぐ滑り降りる「中央コース」で、これは今でも指導標の一部が残っていて、当時のコースが分かる。もう一つは、「パラダイスコース」である。これは私の認識と異なる。仙台一高の井戸沢小屋のすぐ西にも、このコースの指導標の残骸は残っている。だから、私の知る「パラダイスコース」は、刈田岳から井戸沢小屋への夏道に沿って下り、井戸沢小屋のすぐ西を通って、昔の聖山平(←地図に載っていないので、この地名も新しいのかも知れない)リフト降り場へと滑る林間コースだ。ところが、1962年の「山岳地図」では、山頂からダイレクトに井戸沢の中を滑り降りて、後の聖山平リフト乗り場辺りから宮城県観光道路(澄川スキー場から後見坂の南を迂回して大黒天に至る。砂利道で、ほとんど使用されていない。冬は雪上車道)に入り、それに沿って澄川スキー場下部まで下るルートになっている。おそらく、聖山平にリフトを付ける際にコースを変更したのだろうが、それがいつなのかは分からない。

 なんだか、地図を見ながらでないと分かりにくいような話を、文字だけで長々と書いてしまった。ただ、私としては、思いもかけなかった当時の蔵王事情を知って、当時の人々が山とどう関わっていたかについていろいろと空想が広がり、楽しい時間を過ごすことができた。特にスキー場に関することについては、もう少し詳しい事情と変遷とを調べてみたいものだと思う。