私の「発達障害」



 本当に気持ちのよい晴天が続く。特別な用事もなく、家にいた時間の長かった週末、家の内から真っ青な太平洋を眺め暮らした。

 娘の友人が2名、泊まりがけで遊びに来ていた。郊外の仮設住宅から通っているので、日頃、放課後や休日に遊ぶことができない。小学校の同級生同士が遊ぶのに泊まりがけとは恐れ入るが、今のこの地域特有の事情である。

 私が驚くのは、その子たちがペットボトル入りのジュースを何本か持って来て、時折それを飲んでいることである。妻に、「あの子たちは日頃から、常にジュースを持って歩いているのかなぁ?」と尋ねてみると、「そうなんじゃない?だから小学生肥っているのよ・・・」と答えが返ってきた。私はペットボトルの使い捨てというのが前々から許せない人間だし、そもそも着色料と香料と砂糖だけみたいなジュースを小学生が大量に飲むことは、健康上由々しき問題だと思っているので、子供にそんなものを買い与えたりしない。

 もっとも、妻は私と相当に思想が異なるらしく、日常的に、とまでは言わないものの、私に比べると相当気安くペットボトル入り飲料を買っては子供にも与え、容器を一度きりで捨ててしまう。一方、私は、ペットボトルなどという立派な容器を一回しか使わないということが考えられず、どこかでもらったお茶のペットボトルを、繰り返し繰り返し水筒代わりに使っている。リビングあたりに置いておくと、妻にゴミ(一応リサイクルだが、そんなのは気休めかまやかしなので「ゴミ」と書いておく)として捨てられてしまうので、今や、自分の書架の一角に水筒代わりのペットボトルを立てておき、ゴミではないとアピールしなければならない。

 世の中の人々にとって、快適だ、便利だ、面白い、美味しいというのは、内容を問わず「善」なのだな、と思う。その価値観からすれば、子供が喜び、取り扱いに面倒のないペットボトルは、間違いなく「善」なのだ。子供にそれを持たせないとすれば、それが金銭的に高価で、買い与えられないという事情が生じた時だけなのだろう。思想によるのではない。資源を温存し、地球環境を守り、子どもの健全な発達を促すために、目の前の不自由を忍ぶなどというのが、一般の人から見れば一顧にさえ値しないことだということを痛感する。(参考→こちらこちらなどなど)

 友人が来ていた24時間あまりの間、妻が買ってやったのか、我が子どもたちもジュースのペットボトルを手にして遊んでいた。息子がずいぶん静かに遊んでいると思っていたら、娘の部屋で、友人が持って来たゲーム機に心を奪われていたらしい。友人たちが帰った後、それらに対する執着を引き摺らなかったので、私としても文句は言わないことにした。

 授業中も携帯電話の着信が気になって仕方がない高校生だけでなく、どこへ行っても、携帯電話、ゲーム機、その他けじめのない膨大な消費の姿から逃れられない。長期的な視点に立つと、私にはそれらのデメリットばかりが目について、メリットが思いつかないので、余計に目障りだ。ねっとりとまとわりついてくるようで、私にとっては大きなストレスだ。そういうものを目にしながらしか生きられない世の中を、非常に生きづらいと思う。子供が中学か高校に入って、携帯電話を買えと大騒ぎし始めたら、私はどうするだろう。今や携帯電話が何より嫌い、妻も含めて、人が使っているのを見ているだけで不愉快という私は、自分の子どもたちが四六時中着信を気にし、何事かを中断しては画面をのぞき込んでいる姿を見ながら生活することには、耐えられそうにない。子供がどうしても携帯電話(スマホだろう)に執着するなら、私が家を出るしかない、包丁を振り回すようになるよりはいいだろう、今のうちから家出先を探しておかなければ、と冗談でもなくよく考え、悪い夢を見る。

 生きづらい、生きづらいと思いながら、それが、発達障害に関する書物によく出てくる表現であることに思い至った。発達障害を持っていると、自分と世の中との間に齟齬が生じ、生きづらさを感じる、発達障害を治すのは難しいのだから、大切なのは、障害を治すことよりも、その生きづらさをどのように緩和させるかだ、というような文脈である。なるほど、私は発達障害なのだ。過剰な消費とけじめのなさにアレルギー反応を示し、あらゆる場面で世の中の大半の人とは逆の方向に思考が進もうとするという障害を持っているのである。そのことは分かったが、では、私の生きづらさを解消するために何が出来るのか・・・?その答えは見えない。

 真っ青な海を見ながら過ごした割には、話が暗い週末であった。