気仙沼線全通の熱狂から考える



 冬休みに、亡父の蔵書の中に宮脇俊三の『時刻表2万キロ』(河出書房新社、1978年)という本を見つけて、手に取った。宮脇俊三という「乗り鉄」のご本尊のような人は、『時刻表昭和史』という名著の執筆者として、私にとって敬意の対象となっている(2003年没)。『時刻表昭和史』を、そのタイトルによって、昭和における『時刻表』の歴史を書いたマニアックな本、などと軽率に判断してはいけない。これがなかなかどうして、旅行体験を軸とした甚だ秀逸なる自分史(自己形成史)なのである。

 もっとも、宮脇氏のそれ以外の本に関しては、さして感心した記憶がない。『時刻表2万キロ』は、タイトルを見れば、国鉄約2万キロの全線を乗り歩いた記録であると知れる。そんな本が面白いとは思えない、宮脇俊三が既に鉄道ライターとして有名になっていたから出版されただけであって、他の人が同様のものを書いたとしても、それを出そうという出版社は表れないだろう・・・と思いつつ、私が暇でもないのに読んでみようと思ったのは、単純に鉄道に乗り歩くということをどのように描くのか、その技を学んでみたい、と思ったからである。私にも、鉄道に乗ってぼやっと景色を見ていただけ、というような記事がいくつもある。それと彼の文章はどのように違うのか、どうすれば、文章は読むに値するものになるのか、そんなことを学びたいと思った。

 読んでみて、やはりさほど感心はしなかった。学べる点があったかどうかも怪しい。私の文章が宮脇以下には思えない(笑)。字数に制限がなかったと見えて、とにかく何でもかんでも皆書いた、というだけの文章に見えた。やはり、私にとって宮脇俊三は、『時刻表昭和史』だけの文筆家である。

 ところで、宮脇氏は、1977年5月28日に、足尾線を完乗することで、当時、国鉄が持っていた20800キロの全線区完乗を達成した。ところが、今私が「当時」と書いたとおり、路線は流動的である。廃止される線もあれば、開通する線もあって一定しない。宮脇氏が完乗したのは、あくまでも1977年5月28日時点での国鉄全線区であった。実際、その半年あまり後、同年12月11日には、気仙沼線の柳津〜本吉間が開通した。宮脇氏は、「1日であろうと100パーセントを下回りたくない」という執念に基づき、開通当日、気仙沼線を乗りに出掛けた。この時のことが、いわばオマケのような形で、同僚による全線完乗祝賀会に関する記述の後にぶら下げられている。実は、私にとって最も印象的だったのは、この章であった。そこには、気仙沼線開通を待ちわび、開通に熱狂する地元の様子がリアルに描かれている。少し長くなるかも知れないが、要所を引用しておこう。鉄道が開通する瞬間を描いた記事としても、珍しく貴重なものかも知れない。


「古さびた前谷地の駅には「祝気仙沼線開通」の飾り付けがなされ、ホームには鼓笛隊が並び、着物姿のお姐さんたちが花束を運転士に渡したりしていて華やかであった。前谷地は今回の開通によって格別の恩恵を受けるわけでもないのにこの調子では、開通区間に入ったら相当なことになるぞ、と私は嬉しくなった。(中略)

 柳津に着いたのは8分遅れの10時25分であった。日の丸の小旗を持った町の人たちが、ホームの端から端まで、まるで密植された植物のように生えそろって埋め尽くしている。いつ線路上にこぼれ落ちるかもしれないので、ディーゼルカーはホームの手前から速度を極度に落としてそろりそろりと進入する。駅前では溢れた人たちがこれも小旗を振り、大太鼓を積んで祭りの山車のように飾り付けたトラックもある。(中略)13分遅れて、10時30分に列車は歩くようにゆっくりと動き出した。日の丸の小旗を持った手が一斉に上がる。もちろん万歳である。中年男なら誰でも思い出す。これは出征兵士の見送りではないか。

 つぎの陸前横山からは開通区間の新駅となる。歓迎ぶりはますます熱っぽくなった。(中略)

 いよいよ悲願80年の志津川に着く。

 気仙沼線の中心駅だけに大きな新駅である。しかし広いホームに立つ人の数は意外に少ない。そのかわり、サッカーでもやれそうな広い駅前広場はびっしりと人間で埋まっていて、思わず口を開けて見下ろしたところ5千人以下ではない。1万人ぐらいかもしれない。志津川は人口1万7千だからまさに町を挙げてである。特設の舞台も設けられている。花火が打ち上がり、風船が何百と放たれ、少なくとも百羽以上の鳩が飛び立った。上空にはヘリコプターが三機も旋回している。これはもはや出征兵士の見送りではない。(中略)

 つぎの清水浜と、そのつぎの歌津はいずれも小さな漁港であった。家が少ないからホームを埋め尽くすほどの人はいない。そのかわり手足を動かすことができるから、いろいろなことをやってくれる。けさ仙台で読んだ地方新聞によると、きょうのために1ヶ月も前から踊りなど練習していたという。焦茶色に日焼けし海風に鍛え抜かれたおばさんたちが、花笠をかぶって一列に並び片足を上げて踊る。なんだか申し訳ない気がする。しかしその顔は嬉々としていて、駆り出されの翳りは微塵もない。」


 鉄道の開通が、沿線の人々にとってどれほの喜びであるか、痛いほどよく分かる。もっとも、宮脇氏が熱狂を描いた気仙沼線開通当日、既に、この線にバラ色の将来が信じられていたわけではない。宮脇氏は、冷酷な現実を次のように書く。


「地元の人たちは鉄道の開通を喜ぶが、みんなマイカーを持っているから、ほとんど乗ろうとはしない。(中略)開通日のお祭りが終われば、風光のよい三陸海岸の新線を、わずかな客を乗せたディーゼルカーが淋しく走るだけになるのだろう。国鉄では気仙沼線の赤字係数の計算はちゃんと出来ており、725の見込みであるという。」


 だが、宮脇氏はこれに続けて、「むずかしい問題ばかりだが、私には、駅頭で妙な踊りを踊る日焼けしたおばさんたちの顔だけが、たしかなものに思われる」とも書いている。おばさんたちの顔に表れた「たしかなもの」とは何だろう?やはりそれは、どうしても、遠くの町と結び付いたという安心感であるはずだ。その点で、鉄道は圧倒的な力を持つ。道路だって繋がっているのだが、道路はそのような印象を人に与えない。おそらく、枝分かれが多すぎて、結び付く対象が絞れないのだ。だから、沿線住民が、鉄道の開通を熱狂的に喜んでいることも、実際には鉄道を利用しないのも、ともに真実であり、何ら矛盾は含んでいないのだ。

 偶然ではあるが、気仙沼線が同じ地域内を走る身近な路線である私は、宮脇氏の文章を読みながら、どうしても今の気仙沼線の姿を思い浮かべてしまう。昨年の6月に、東日本大震災でズタズタになった気仙沼線を、高級な代行バスといった趣のBRTで気仙沼まで行った話は書いた(→こちら)。宮脇氏の描く開通初日の気仙沼線と今の気仙沼線の落差は、あまりにも大きい。

 その時書いたとおり、地元では鉄道による復旧を希望しているが、700億円という工事費がネックとなって、この線を今後どうするかについては、いまだに結論が出ていない。もともと赤字路線なわけだから、赤字を生み出す設備を700億円かけて作るのは、確かに、金銭には換算できないよほど大きな価値がなければできることではない。鉄道が人に与える安心感が、果たして「金銭には換算できないよほど大きな価値」であるのかどうか。

 私が自家用車禁止論者だということもあるかも知れないが、地方を大切にしようと思えば、軸となる鉄道線路は確保しておくべきだろう、と思う。確かに、700億円は巨額である。それでも、有効性が未知数の上、邪魔で目障りな防潮堤建設や、むやみな震災遺構の保存、過度に自然に逆らうかさ上げ工事、将来的な維持費も膨大な公園整備(我が家の下にできる広大なやつ)といったバカバカしいことにお金を使うよりは、人々に安心を与える鉄道復旧は、よほど価値ある事業のように思われる。

 宮脇氏の文章は、全体としてはたいしたものではなかったが、そんなことを考え、再認識させてはくれたので、よしとしよう。