パレスチナに拍手を、得点はチームのもの



 サッカーのアジアカップ1次リーグを、日本代表が1位通過したというのは結構なことである。今日は私も試合を見ていた。2対0というのは「大差」と言うほどではないが、比較的安心して見ていられる試合内容だったと思う。いつも不思議に思うのだが、どちらのチームも同じ11人で試合をしているのに、人数が多く見えるチーム、少なく見えるチームというのが存在する。少なく見える側のチームが、仮に1点先に取ったとしても、やがて逆転されてしまい最後は多く見える方のチームが勝つ。今日の日本代表は、ヨルダンよりも選手の数が少なく見える瞬間というのがなかった。

 一応日本人として、日本を応援し、勝てば嬉しくはなるのだが、一方で、少し後ろめたいような寂しいような気持ちを引き摺っているのも確かだ。試合を見ながら、どうも公平ではないな、と思うからだ。

 今回の1次リーグで言えば、国情が安定している順に並べると、間違いなく日本、ヨルダン、イラクパレスチナとなる。日本が繁栄と平和とを謳歌し、サッカー選手はサッカーに専念する余裕があるのに対して、パレスチナなんて、どうしてA代表を組織し、予選を勝ち抜いてアジアカップに出られるのか、と驚いてしまうほどだ。気軽に「パレスチナ」と言うほど、その実情を知っているわけでもないが、ヨルダン川西岸地区とガザに国家が二分され、ガザはイスラエル空爆にさらされている。そんな中で、サッカーをすること、ナショナルチームを作って強化することは、信じ難いほど困難な作業であるに違いない。イラクだって、アメリカ軍が撤退したとは言え、国内の治安は安定せず、おそらくは今でも自爆テロが行われ、イスラム国からも様々な影響を受けているだろう。ひとつまみのサッカーエリートが、欧米のクラブチームでサッカーにうつつを抜かす、という状況もないようだ。こんなことをあれこれ考えていると、ピッチ上の彼らが非常に健気に見えてくる。日本が彼らに勝ったからと言って、まさか「ざま見ろ!」とは言えない。ほとんど対等に試合をする彼らに、敬意を抱かなければ・・・。

 ところで、今日は香川真司が「待望の」ゴールを決めた。Aマッチで9試合ぶりだという。もっとも、「待望」していたのは、第一にマスコミであろう。本人もなのだろうか?少なくとも私はその中に入らない。アジアカップの3試合で、香川は非常にいい動きをしていた。香川がいたからこそ点が入った、という場面は少なくなかったはずだ。

 いつも思うのだが、サッカーでゴールを決めるのは、野球でホームランを打つのとはわけが違う。たいていは、選手全員が、パスを回しながら相手ゴールに近付き、何かの事情で最後にボールを蹴り込む人間が決まる、という感じだ。もちろん、守備位置による役割分担というのはあるが、野球のポジションほど固定的、限定的ではない。だから、その最後の一人になったということを、いかにもその人の手柄として、数勘定までするのはいかがなものか。

 しばらく前に、ラグビー部の顧問と話をしていて、ひどく感心したことがある。それは、ラグビーでは、誰がトライを幾つ決めた、ということを言わないということだ。「One for All、All for One(一人はみんなのために、みんなは一人のために)」というのがラグビーの精神で、みんなでパスを繋ぎながらトライに持ち込んだ時、それが誰か一人の功績であるはずがない、だから「誰が」という言い方はしないのだ、ということだった。サッカーもそうであるべきだろう。

 サッカーという競技には、英語名が2種類ある。「Soccer」と「Football」だ。前者は「Associate(提携する、仲間になる)」という言葉と根が同じらしい。つまり、「サッカー」というのはチームプレー、組織戦術の面白さに着目した表現であり、「フットボール」というのは足技、個人技に着目した表現だと言っていいだろう。スペイン語、イタリア語圏では、単語としてもっぱら「フットボール」系が使われるので、世界的に見ても、言語の世界では「フットボール」系が優勢なのだろうが、あくまでもそれは言語の世界でのこと。現実としては、サッカーは明らかに「サッカー」、つまり、組織的なスポーツであり、得点が個人技の結果である場面は限られている。

 「誰が点を取った」という言い方は、ラグビー同様止めればいいのに、と思う。それだけが、殊更に価値を持つのはどうしても変だ。香川真司は、今日ゴールを決められなかったとしても、十分に光り輝いている。