子どもに何を見せて何を見せないか・・・人質事件の映像について



 1月20日に、イスラム国が2人の日本人人質について、2億ドルの身代金を要求しているとのニュースが流れた。この事件については、2億ドルを払うべきか否かという点を中心に、多くの人が語っているようなので、少し違う観点で書いておこうと思う。

 21日の新聞各紙は第1面に、でかでかと例のオレンジ色の服を着て跪く2人の日本人と、ナイフを持った黒ずくめの男が写るインターネット画像を掲載した。これを見て、我が家の6才の息子が「恐ぁいぃ」とつぶやいた。私は、その時は何とも思わなかったのだが、その日の夜、NHKのニュースで、NHKとイスラム国との直接のメールのやり取りについて報道されているのを見た息子が、また「恐ぁいぃ」と言った。息子の表情を見て、私は、まずいぞ、と思った。話の内容がしっかり分かっているとは思えないが、明らかに強い不安を感じ、怯えているのである。私はあわててテレビを消した。

 子供には出来るだけ多くの愛情を注ぎ、自分は守られている、尊重されているという安心感を与えてやることが大切だ、という話はよく耳にする。確かにその通りだろう、と私は納得している。そうでなければ、自己肯定感に欠け、情緒が不安定な大人になるような気がする。学説も多くあるのだろうが、私は知らない。ただ、直感でそう思うのである。

 私は、以前から不思議に思っていたのだが、子供のための絵本やマンガ、テレビ番組には動物がたくさん登場する。もちろん、ほとんどは擬人化されていて、しかもどんな種類の動物であるかに関係なく、みんな仲良しだ。狼とウサギ、鷹とネズミでさえ、絵本の中では仲良く遊んでいる。時に、狼が子ブタを襲う場面はあっても、どこかユーモアが漂っていて、凄惨な物語にはなっていない。落ちは「間抜けな狼さん」だ。

 なぜ、動物なのだろう?私は当初、どんなに異質なものでも仲良く出来る、仲良くすべきだという道徳的なメッセージがこめられていると思っていた。これはこれで間違いではないかも知れない。ところが、ある日、私がふと思いついたのは、幼い子どもたちの世界にはそもそも差異や対立という概念が存在しないのではないか、そのことを明瞭にするのは、差異の大きなもの、普通は対立(敵対)しているものを、差異や対立がないかのように扱うことによってではないか、ということである。子どもたちの頭の中には、人間と動物との違いも、狼とウサギの違いもない方向に考えようとする働きがあって、絵本作家たちはそのことに気付き、子どもたちの意識が動く方向に向かって登場人物を設定した結果が、「動物」なのではないだろうか。

 とまあ、これらのようなことを考えると、今の人質報道が、いかに子供にとって問題のあるものか、ということが分かってくる。もともとどぎつい映像は、子供に強い不安感を与え、心に傷を残す可能性がある上、人間が目指すべき理想にも、子どもたちの本来的な感性や思考にも逆らうという意味で、二重三重にダメージを与えるような気がするのである。

 人が人を虐げ、殺害するなどというのは、究極の差異化であり対立である。私のような大人でさえ、決して平常心で見つめられるものではない。それでも、そのことに耐え、それを現実として受け止めながら、どう対応すればいいのかを考えなければいけない時はある。しかしそれは、ある一定の発達段階に達していることが条件となるのではないか。

 以前、フィンランドの教育について調べていた時、次のような話を読んだ。

フィンランドでは、子どもにはニュースを見せないのが普通です。6時と8時半からニュースがありますが、なかには戦争の報告などもあります。さほどひどい映像は流れませんが、それでも5〜6才の子どもには刺激的すぎるものもあります。幼い子は安らかにぐっすり眠ることが大切なので、教師は親に、子どもにニュースは見せないようにと伝えているのです。」(リッカ・パッカラ『フィンランドの教育力』学研新書、2008年)

 そして今、この話がひどく立派な見識に満ちたものに思われてきた。もちろん、このことは、現実から目を背けさせ、純粋培養をすることではない。刺激的すぎる情報を与えることは、精神を鍛えることにはならない。あくまでも、発達段階に応じた情報の与え方、というものがある、ということだ。

 子どもを取り巻く文化環境というと、私にはすぐに、携帯電話やゲーム機の野放し状態ばかりが思い浮かぶのだけれど、それらだけを悪者にするのはよくないのかも知れない。1人の主権者として正しく判断するために、積極的に手に入れることがよしとされる社会に関する情報も、ある一定の年齢では、携帯電話やゲーム機に劣らない害となる可能性がある。どの年齢で、どの程度の情報に接することが適正なのか、逆に言えば、与えるべきでない情報とはどのようなものか。これは、少し学説も調べてみた方がいい、と思い始めている。

 もっとも、テレビはともかく、新聞の一面まで子どもの目に触れないようにすることは難しい。本当は、社会全体で考えなければならないことなのだろう。

 息子は、その次の日の夜、本当に久しぶりで、「恐い夢を見た」と言って夜中に泣いた。夢の内容は覚えていないらしいが・・・。