荒れ野の70年



 統一ドイツの初代大統領、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーの訃報が新聞各紙に載ったのは、今月1日のことだった。94歳。

 おそらくは他の多くの人と同じように、私も1985年5月8日、ドイツの敗戦40周年を記念した連邦議会における講演で、この人のことを知った。訃報や、年齢が年齢だけにあらかじめ用意されていたと思しき、新聞記事としての「評伝」に目を通した後、我が家の書架から岩波ブックレット『荒れ野の40年〜ヴァイツゼッカー大統領演説全文』(1986年刊)というのを探してきて、久しぶりで読み直してみた。政治的権限を持たないとは言え、一国の元首の演説として、確かに優れたものだと思った。

 一般には、第3節に登場する「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となります」という部分ばかりが評価されるが、私はむしろ、昨日まで書いたISの問題を始めとする国内外の出来事を念頭に、演説の最後の部分がひときわ印象深かった。


ヒトラーは、偏見と憎悪と敵意とをかきたてつづけることに腐心しておりました。

若い人たちにお願いしたい。

他の人々に対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。

(中略)

若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。

民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。

自由を尊重しよう。

平和のために尽力しよう。

法を遵守しよう。

正義については内面の規範に従おう。

今日5月8日にさいし、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。」


 前段は、ISよりも、私の頭にまず思い浮かんだのは、橋下徹大阪市長である。彼は民衆に敵(公務員である場合が多い)を示し、それに立ち向かう正義の味方として自分を演出しながら、政治家としての地位を守ろうとしている。暗いやり方だが、なるほど、ヒトラーの流れを汲むわけだ。

 後段は、ISに関して一昨日私が書いたこととも重なり合う。

 「正義については内面の規範に従おう」は意味深い言葉である。『毎日新聞』に載った「評伝」には、氏が大統領執務室に、いつも哲学者カントのミニチュア像を置き、記者に対し「特にカントは読んで欲しい。(中略)最近は政治家もカントを読まないのが気になる」と寂しげにつぶやいたことが記されている。

 私はカントの思想には明るくないが、それでも、いわば常識として、「ああ、いかに感嘆しても感嘆しきれぬものは、天上の星の輝きと我が心の内なる道徳律」という言葉くらいは知っている。ヴァイツゼッカー氏が、「法を遵守しよう」に続けて、「正義については内面の規範に従おう」と語ったのは、正義は外から与えられるものではない、それを獲得するための手段は、(カントが言うように)先天的に全ての人に内在している規範によるのだ、人々がそれに従った結果として生まれてくる正義によってでなければ、本当の社会的正義も実現しない、法はあくまでも現実的要請から生まれた経過措置に過ぎない、ということだったのではないか。

 おそらく、氏が「過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となります」と語り、真摯に過去を直視しようとしたのも、彼の「内面の規範」が、彼にそうすることを求めたからであって、外在的な力が彼にそうすることを強いたからではない。彼の言葉が大きな力を持ったとすれば、それは内容よりも、言葉にこめられたそのような根源的な衝動によるのではないかと思う。同じ事を語っても、その言葉は、人を動かす場合と動かさない場合とがあるのである。

 氏がこの演説をしてから、更に30年の歳月が過ぎた。世界の現実は、決して彼が望んだような、多くの人々の内面の規範に支えられた本当の正義に満ちてきてはいない。だが、人の上に立つ者は、法や武力を以て現実的対応に心を砕く一方で、彼が語ったような理想をこそ常に心に持っていなければならないということの価値は、いささかも減じていない。そのことを心に留めようと思う。合掌