日本人のDNA・・・「綾音」の長唄を聴く



 昨夜は、石巻市内のホテルに「長唄」を聴きに行っていた。この田舎町で、邦楽の演奏会というのは珍しい。

 やって来たのは「綾音(あやね)」という8人グループ(→HP)のうちの7人。全員が、東京芸術大学の邦楽科で学んだ30歳くらいまでの女性である。芸大卒の中でも、とりわけ優秀な女性邦楽家たちだということだ。グループの1人に石巻在住の人と縁があり、ならば来てもらおうか、ということになった。そこに、これまた何かの縁で、私も呼んでいただいた、ということである。「演奏会」というよりは小規模な(=贅沢な)「ディナーショー」という趣であった。

 長唄とは、もともと歌舞伎の音楽だったものが、独立したジャンルとして発展したものである。私も歌舞伎ならけっこう見に行った。仙台に、毎年「松竹大歌舞伎」が来ていて、一番安い切符なら1000円か1500円で買えたからである。歌舞伎は面白い。古典芸能とは言っても、歌舞伎と狂言だけは、誰が見ても「分かる」だろうと思う。そして、その音楽も魅力的だ。あの三味線の響きを聴いていると、艶っぽいというか、粋(いき)というか、風流というか・・・。おそらくそれは、私の日本人としてのDNAを刺激して、心を波立たせるのだろう。

 ところが、そこから生まれた長唄というものを聴いたことはなかった。今回は、私の初長唄だったのである。とても貴重な機会なので、1ヶ月半くらい前から予習を始めた。買って来たのは、細谷朋子『長唄の世界へようこそ』(春風社、2014年)である。長唄やそこで用いられる楽器についての解説とともに、15の曲の歌詞について、訳、語句解釈、研究ノートといった形で、背景を含めて詳しく解説している。

 読むと、長唄の歌詞はなかなか難しい。苦労しながら3回くらい読んだところで、たまたま、前の日曜日の夜、Eテレ「古典芸能への招待」で、長唄「二人椀久」というのをやっていたので、総復習、実力試しとして見てみた。全然分からなかった。歌詞が理解できないのみならず、歌舞伎を見ていて三味線の音に感じるような陶酔感も得られず、ただただわけが分からなかったのである。少し落ち込んで昨日を迎えた。

 昨日演奏されたのは「君が代松竹梅」「春興鏡獅子 胡蝶の巻」「藤娘」の3曲であった。いずれも19世紀に作られたものである。三味線2人、笛(能管と篠笛持ち替え)1人、囃子(小鼓、太鼓)2人、唄1人、これに立方(踊り)1人が加わる。

 曲の解説と歌詞は印刷したものが配られたが、そんなものを見ながら聴くのは興醒めで、しかも、演奏が始まると必要ないことが分かった。実際の演奏に接すると、歌舞伎の時と同様、その響きだけで十分に心引き付けられる。モーツァルトのオペラを聴く時、歌詞を意識しないまま、その自然で心地よい響きに身を任せる、というのと同じことである。しかも、作曲者というのは、歌詞の内容を音に反映させるので、歌詞を意識せずに響きを楽しんでいるとは言っても、その感動は歌詞と決して無関係ではないはずだ。ともかく、私は退屈しないどころか、演奏がもっと続いて欲しいと思いながら、その音楽に浸っていたのである。あえてケチを付ければ、さほど広い会場でもなし、唄にマイクは要らないと思った。マイクを通した音は、どうしても光沢を失い、平板になる。テレビの長唄に心動かされなかったのも、同様の理由によるだろう。

 演奏者は全員、黒を基調とした和服(留袖)を着、正座をして演奏する。洋楽の演奏者と違って、体を揺らしたり、表情を変えたりということもない。正に凜とした気品を感じさせる姿であった。これもまたたいへん魅力的である。おそらく、頭の中には無意識に、今時のチャラチャラした若い女性が比較の対象として浮かんできて、出演者がより気高く感じられたのだろうと思う。

 終演後、歓迎の酒席に同席させていただいた。化粧を落とし、留袖を脱いで普段着の洋装になった彼女たちは、ある意味で「普通の女の子」であったが、やはり好感の持てる方々で、邦楽の世界について気軽に質問をし、お話しをするにはよかった。本当に楽しく過ごすことができた。

 主催者である市内の医師は、これを「邦石の会」と名付けて、来年以降も、年に1回のペースで継続したいと言う。楽しみにしていたい。