ある「典型」の姿



 『石巻かほく』という新聞がある。石巻地区限定のものだが、名前で分かるとおり、全国一の地方紙『河北新報』の子会社なので、『河北新報』を購読すると、自動的に『石巻かほく』も購読することになる。月200円なり。拒否できるのかどうかは知らない。

 さて、その『石巻かほく』第1面には、「つつじ野」という素人コラムが載っている。4〜5人の地域の人が、週に1回、1ヶ月くらい続けては交代、という形だ。その人その人の社会的立場や興味関心、個性というものが表れている。質が高いか低いか、内容的に優れているかどうか、と言えば、まぁ玉石混淆。それが一種の面白さでもあるが、今日は悪い方の話である。

 今日の「つつじ野」は田村某なる元中学校長が書いていた。冒頭の一部を引く。

「中学生が熱心に取り組むものは、何だと思いますか?部活動です。いくら勉強しろと言っても聞く耳を持ちませんが、こと部活動になると、休日でも自ら(頼まれなくても)朝早くに出掛けて行き、一日中練習し帰宅します。好きで入部し、試合で勝つために苦しい練習にも耐えられるのです。「先生になって生徒を県大会に連れて行きたい」。私の教員志望動機の一つです。つまり、生徒や先生にとって部活動は、それほど大切な存在と言えます。」

 こういう人が長であった学校の職員というのは大変だし、本当は生徒にとっても気の毒なことだ、と思う。私は以前から時々書いているとおり(→参考)、現在の学校の部活動を、諸悪の根源のように思っている人間なので、田村氏とは水と油、お互いに「こんな奴がいるから学校がよくならないのだ」と罵り合うことにしかならないだろう。

 しかし、それでは発展的でないので、少し冷静に、上の文章に書かれていることの問題点を指摘しておこう。1回の枠がわずか750字というコラムなので、どうしても意を尽くせない部分があるのはやむを得ないとは言え、やはり少しひどすぎる。まず一つに、学校とは本来どうあるべきかという哲学が微塵も感じられない。「勉強しろと言っても聞く耳を持」たないことは、仕方のないことでしかないのだろうか?次に、生徒が喜ぶことはいいことだ、という浅はかな発想に支配されていることである。以上二つは関連し合っていて、学校は本来何をする場所か、どうあるべき場所かという哲学を放棄するから、喜ぶことが直ちに善になってしまうのである。

 中学生はみんな部活が大好きだ、というような書き方もいかがなものかと思う。まして、部活動を大切に思っている人の中に先生を入れ、しかもまるでそれが全ての先生であるかのような書き方をしているのは言語道断である。休日に、朝早くから一日中練習に励む生徒像を一般化し、美化している上、それに付き合っている教員の勤務時間に対する問題意識が一切ないのはもとより、その中に、どのような思いの人間が混じっているか、その教員の背後で家族は何を思っているか、ということへの想像や配慮も一切感じられない。

 結局のところ、この人は自分が学生時代から部活動大好きで、「先生になって生徒を県大会に連れて行きたい」という、学校本来の業務とは関係のないような動機で教員になり、部活中心の教員生活を送り、その自分の嗜好と思想とを、全ての人に押し付けていい気分になっている、というだけなのだろう。一教員ならまだ許せる。しかし、「長」になっていい人ではない。

 私が上で「参考」としてリンクさせた2012年5月1日の記事の中で、「大義名分を振りかざして、自分の趣味に他の教員を巻き添えにし、多くの不幸を作り出している罪は大きい」と書いた教員の姿そのものである。たいへん申し訳ないが、その記事を補足するものとして、一つの「典型」の姿をここに記録しておくことにした。


(補足)私はこの田村某という人を直接には知らないので、あまり軽々しく言えないのだが、こんな人がなぜ校長になったかといえば、勤務時間も考えず、「生徒のため」という旗を振って部活指導に当たり、それが「教育熱心ないい先生」というお上の評価に結び付いた可能性がある。仮にそうだとすれば、この人だけではなく、お上の罪も相当重い。